【対談連載】造形作家 藤田 丈(上)

【松江発】ここ出雲の地で造形作家として活躍されている藤田さんは、京都から移住した一番の理由として「縄文から続く自然が好き」であることを挙げ、「国譲り神話」に見える和譲心で相手と協調し、ふところの深い自然と向き合ってきたのが出雲なのではないかと話してくれた。そして、藤田さんが興味を持ち続けているものの一つに縄文文化がある。中でも縄文土器こそが自然と向き合ってできた造形であり、火焔土器や土偶などは今のモダンアートも及ばぬ冠たる作品であるという。しばし、悠久の歴史に思いをはせる。

(本紙主幹・奥田芳恵)

2024. 4.25/島根県松江市のあとりえ木朴にて

先生の発した一言がもたらした

人生の大きな方向転換

芳恵

藤田さんは、この出雲の地に住まわれてだいぶ長いということですが、ご出身は京都なんですね。

藤田

ええ、私は京都出身で、京都市立芸術大学、当時は京都市立美術大学といいましたが、そこの図案科を卒業しました。それで卒業式の夜、夜行列車に乗って出雲にやってきたのです。

芳恵

卒業式の夜ですか!

藤田

23歳のときですから、もう60年になりますね。そのときは、出雲には3年くらいのつもりだったのですが(笑)。

芳恵

なぜ、京都から出雲に?

藤田

私は、大学の図案科で今でいうデザインを学び、就職も決まっていました。それは髙島屋設計部という百貨店の子会社で、航空機や船舶などの内装を手掛ける会社でした。

図案科では、平面も学びますが、立体造形から建築やインテリアなども学び、私は立体のほうに興味を持つようになっていました。

芳恵

ということは、うってつけの就職先だったのですね。

藤田

そうですね。まだ「デザイン」という言葉は婦人服の世界にしかなく、当時は「商業美術」といわれていました。大学の先輩である柳原良平さんが、ウイスキーでは二番手だった寿屋(現サントリー)に入り、「トリスおじさん」のキャラクターでウイスキーの売り上げをトップに押し上げた時代でした。

芳恵

デザインの仕事が、脚光を浴びる時代になったのですね。それなのに、なぜ?

藤田

あるとき、京都市立芸大で非常勤講師、後に東京芸大の教授となる山本(稲次)敏郎先生から「出雲は面白いところだよ。もしかすると、日本をつくったのは大和ではなく出雲なんじゃないか」との話をうかがったのです。それで、原風景の自然が好きだった私は、出雲の話やその風土へ興味が一気にふくらみ、内定していた会社に断りを入れてしまったんです。

芳恵

それはまた、大胆な決断ですね。

藤田

経済的に自立できる道を示唆していた親は肩を落としましたし、大学の担当教授も怒りました。京都市立芸大の学生でその会社に内定したのは私が初めてだったのですが、私が断ったことで後進の道を閉ざしてしまったというわけです。それで教授は、私に「卒業させない」と。

芳恵

大変。でも卒業できたのですね?

藤田

卒業論文や卒業研究の代わりに、芸大には卒業制作というものがあります。卒業させないとは言われたけど、作品を提出したら賞をもらってしまったんです。さすがに大学側も、卒業制作で賞をとった学生を卒業させないわけにはいかないですよね(笑)。

芳恵

卒業制作の作品はどのようなものだったのでしょうか。

藤田

都市計画のデザインです。遠近里山の等高線に沿ってその上空に道をつくり、そこに町やインフラを整備していくというアイデアでした。

芳恵

まるで未来都市のようですね。

卒業後20年で自前のアトリエでの創作活動に

芳恵

ところで、就職の内定を辞退して、いきなり出雲に移住されたわけですが、どのようにして生計を立てられたのですか。

藤田

出雲に来た頃は、史跡や巨木などを求めて、町中や山の中をよく歩き回っていたのですが、ある日、山あいの道で崖から落ちかかっている切り株を見つけました。この切り株を使ったら面白いものができるだろうと思って、持ち主にそれを譲ってもらったんです。そして、それを移住後知り合いになった家具工場の空き地に持ち込んで、そこに小屋を建てて造形の作業をさせてもらっていました。そうしているうちに、家具工場の親父さんから仕事を手伝ってくれないかと依頼されたんですね。

芳恵

腕を見込まれたのですね。

藤田

絵や図面、デザインは好きなので、いいですよと。それであるとき、飲食店に置く座面の高い子ども用の椅子を設計しました。特注品ですね。当時は、まだ既製品のそういう椅子がなかったんです。

芳恵

今はファミレスなどには必ず備えてありますが、当時の松江にはなかったのでしょうね。

藤田

そうしているうちに、工場の親父さんがあまり実務に携わらなくなって、気づいたら私がその代わりに実務をするようになっていたんです。

芳恵

造形作家の仕事より、工場の仕事のほうが忙しくなってしまいますね。

藤田

従業員が30人くらいいる工場で、法人化するといいます。私は自分でやりたいことがあるから、会社組織になったら辞めさせてくれといっていたのですが、新たに会社の役員になった人たちから引き止められてしまいました。午前中だけでいいからとか、いろいろな条件を出してくるんですよ。実際には、午前中だけといってもそんなに簡単に仕事は終わらないんですが(笑)。

芳恵

その工場には、どのくらいいたのですか。

藤田

結局、20年くらいやったのかな。意志が弱いんですね。その間、家でコツコツと創作活動を続けて個展も開きましたが、アトリエを設けたのは43歳の頃、遅咲きです。

芳恵

アトリエでは、どんな作品をつくっておられたのですか。

藤田

絵も描くし、建築の設計もするし、小物(具象、抽象の造形)もつくったりします。大きなものでは、たまに丸太を彫って「裸の王様」が座るような椅子、またモニュメントもつくりました。

芳恵

建築はどんなものを?

藤田

住宅や店舗ですね。たとえば、店舗では、神奈川県のだるま屋さんの設計を手がけたことがあります。四代目が店を継ぐことになり、それまでだるまづくりの工房しかなかったところに、店舗と展示ギャラリーを設けました。

芳恵

お客さんが実際に来られる場になったのですね。

藤田

そうですね。続きの工房でだるまをつくっている様子も見られますし、ギャラリーで国内はもちろん世界中から集めた収蔵品を見学することもできます。また、自分で絵付けを体験することも可能です。その店舗は、神奈川県の景観賞をいただきました。

芳恵

なるほど、店舗の環境景観と実質的な機能の両方を大切にしながら建築設計にあたられているのですね。

後編では、ご幼少の頃のお話や出雲の魅力などについてうかがっていきます。(つづく)

制作途中のモニュメントのマケット(maquette/雛型模型)

藤田さんが現在制作を依頼されている、縄文人のスピリットが込められたモニュメントの模型。これは厚紙製の小さなものだが、実物は木製で、高さ1間(約180センチ)くらいになるということだ。だから、縄文人としてはだいぶ大柄なものとなる。それを想像すると、どんなものになるのか、でき上がりが楽しみになってくる。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

<1000分の第349回(上)>

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