NPBでは投手、MLBでは強打者…ハム清宮は「21=強打」の先駆者になれるか

背番号「21」を背負うこととなった日本ハム・清宮【写真:石川加奈子】

今季NPB12球団の背番号「21」はすべて投手

 清宮幸太郎が背負うことになった「21」は、日本ハムでは代々“投手”の番号だったが、広く野球史を見渡しても、打者には異例の背番号だと言えそうだ。NPBでは、これまで「21」を背負った強打者はほとんどいない。まずはNPB12球団で今シーズン背番号「21」をつけた選手を見てみよう。

○NPB球団の今シーズンの背番号「21」

(ソフトバンク)和田毅投手 2016年から
(西武)十亀剣投手 2012年から
(楽天)釜田佳直投手 2012年から
(オリックス)西勇輝投手 2012年から
(日本ハム)武田久投手 2004年から→退団
(ロッテ)内竜也投手 2004年から

(広島)中崎翔太投手 2016年から
(阪神)岩田稔投手 2006年から
(DeNA)今永昇太投手 2016年から
(巨人)吉川光夫投手 2017年から
(中日)岡田俊哉投手 2012年から
(ヤクルト)松岡健一投手 2005年から

 12球団とも見事に投手が並ぶ。ソフトバンクの和田毅は2003年から11年まで「21」をつけていたが、MLBに移籍。この間、ソフトバンクでは千賀滉大が2012年、岩嵜翔が2013年から2015年まで「21」をつけたが、彼らも投手だ。巨人の吉川は日本ハムから移籍した今季「21」をつけたが、昨年はドラ1新人の桜井俊貴投手がつけていた。

 日本プロ野球では「21」は投手の番号という認識があるのは間違いないだろう。

 過去に野手が「21」をつけた例もあるが、強打者はほとんどいなかった。「21」を背負った選手で、主要な打撃タイトルに輝いた者はいない。

クレメンテ、ソーサ…メジャーでは少なくない「21」の強打者

 野球殿堂入りした選手や野球人で背番号「21」をつけたのは、以下の10人だ。

横沢三郎(東京)監督 1936年?1937年
三原脩(巨人)内野手 1936年秋-1938年秋
二出川延明(金鯱)外野手/監督 1936年
島秀之助(金鯱)外野手/助監督 1937年
藤田元司(巨人)投手 1957年
杉浦忠(南海)投手 1958年-1970年
堀内恒夫(巨人)投手 1966年
東尾修(西武)投手 1969年-1988年
米田哲也(阪神)投手 1976年
工藤公康(ダイエー)投手 1995年-1996年

 選手数が少なかった草創期のプロ野球(職業野球)では、「21」は監督やベテラン選手がつけることが多かった。横沢三郎、二出川延明、島秀之助は、野球選手というより指導者、そして審判としての功績が大きい。三原脩は巨人、西鉄などで通算1687勝と挙げるいう偉大な功績を残した大監督だ。

 藤田元司、堀内恒夫は巨人のエースだが、ともにエースナンバーの「18」が空いていなかったので1年だけ「21」をつけている。300勝投手の米田も選手生活晩年に1年だけ「21」をつけた。工藤公康も2年だけつけている。

「21」の大エースと言えば、南海の杉浦忠、西鉄・西武の東尾修ということになる。ともにチームの大黒柱として黄金時代を担った。

 日本の野球史上では、打者の背番号「21」は異例だが、MLBでは「21」を背負った強打者もいる。日本ハムの入団会見でも触れられていたように、パイレーツで3000本安打を記録したロベルト・クレメンテがその代表だが、カブスで60本塁打を3度記録した通算609発のサミー・ソーサ、90年代のヤンキースで中軸打者を担い、1994年には首位打者となったポール・オニールなどもそうだ。

 同時に363勝左腕のウォーレン・スパン、354勝のロジャー・クレメンスも「21」をつけていた。MLBでは、実力があればどんな背番号でも「縁起のいい番号」にすることができる。

 これまで日本では投手の番号として認知されていた「21」。高校通算111本塁打の清宮幸太郎は「21」が強打者の番号として広く知られる活躍をしていきたい。

(Full-Count編集部)

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