100年前の英空軍に日本人パイロット 波瀾万丈の生涯、遺族が語る

飛行機の前に立つハリー(ジェラルディン・リーデックさん提供・共同)

 1914年から18年まで続いた第1次世界大戦。その末期に創設されて間もない英空軍で、戦闘機パイロットとして名をはせた日本人がいたことは、日本ではほとんど知られていない。ハリー・フサオ・オハラ。若いころに日本を飛び出し、英国で「英雄」となった。英国人女性と結婚、ロンドンで家族を設けた。日英が敵同士として戦った第2次大戦の苦難の時代もくぐり抜け、59歳でがんのためなくなった。その波瀾万丈の生涯と思い出を、オランダ・ロッテルダム近郊に住む娘が共同通信に語った。 (共同通信=島崎淳)

日英同盟時代

 ロンドン郊外ヘンドンにある英空軍博物館。英空軍は1918年4月、陸軍航空隊、海軍航空隊が統合されて世界で初めての空軍として発足した。その百年を記念する展覧会を7月に見に行った。すると、当時の英雄たちの肖像写真の中に、航空服を着て精悍な顔立ちをした一人の東洋人がいるのが目に留まった。それがハリー・フサオ・オハラだった。

ロンドン郊外の英空軍博物館に掲げられたハリー(中央)らの肖像写真(共同)

 手を尽くして遺族を探し出したところ、ハリーの次女ジェラルディン・リーデックさん(87)がオランダ・ロッテルダム近郊で健在であることが分かった。9月下旬、ハリーの思い出を聞くためジェラルディンさんの自宅を訪ねた。

 ジェラルディンさんによると、ハリーは1891年、横浜で生まれた。8人きょうだいの末っ子。父は旧大蔵省の官僚だった。漢字表記は明らかでなく、姓は大原、尾原、小原などのいずれか、フサオが名前だったとみられる。早稲田大在学中に共産主義思想に感化され、20歳ごろに日本を飛び出し、英植民地時代のインドに渡った。そこで日本の新聞社向けに記事を書いていたという。ハリーが日本の新聞社の正式な特派員として活動していたのかは分からない。ハリーを紹介した第1次大戦前後の英国の新聞記事には「インドでジャーナリストとして活動していた」という記載がある。

 1914年、第1次大戦が勃発すると英軍インド人部隊に入隊、元々の姓に似た「オハラ」姓を与えられた。オハラは、映画「風と共に去りぬ」の主人公「スカーレット・オハラ」で有名なアイルランド系の名前だ。ハリーがなぜインドで軍隊に入ったのか、明確なことは分かっていない。当時は日英同盟時代で、日本は英国と共に連合軍の一員として参戦していた。ジェラルディンさんは「戦争に若者の血が騒いだのでは」と想像している。

ジェラルディン・リーデックさん=9月、オランダ・ロッテルダム近郊(共同)

勇敢さ

 最初は「第34シーク教徒工兵隊」に加わった。ターバンを巻いた背の高いシーク教徒に混じった日本人は奇異だったらしく、すぐに、日本人に背格好も似たネパール系の「グルカ兵」の部隊の一員になった。その後、英本土の陸軍ミドルセックス連隊に移った。西部戦線のフランスで塹壕戦などに参加した際の勇敢さと軍功から英国の勲章を受けた。短期間、部隊のコックを務めていたこともあったらしい。ハリーはその後、陸軍航空隊に志願、整備士を務めた後、パイロット資格を得た。

 英空軍博物館のピーター・デビット学芸員は、千数百万人の死者を出した第1次大戦について「本来なら人種や肌の色の壁が確実にあった。だが、死者が相次ぎ、できる限り多い兵士を必要としたため、英国人でも白人でもないハリーが採用されたのだろう」と分析する。英国人と日本人の「ハーフ」などではない日本人が英空軍に採用された「恐らく唯一の例だろう」とデビットさんは話す。

 墜落や飛行中に受けた銃撃などで何度も負傷、入退院を繰り返し、全身約70カ所にけがの跡があった。いつ撮影されたものかは分からないが、多数の傷が残る裸の上半身の写真も残っている。勇敢だった父のことをジェラルディンさんは「誇りに思う」と胸を張った。

「日本」語らず

 ハリーは軍役中に妻ミュリエルさんと結婚した。英国の新聞に載ったハリーの武勇伝を知ったミュリエルさんが手紙を書き、文通を始めたことがきっかけだった。戦争が終わり、ロンドンで暮らし始めたが、恩給はわずかで、31年に退役軍人向けの慈善団体で漆塗りの工芸品などをつくる職を得るまでの十数年は苦しい生活だったという。短期間、ロンドンの大学で日本語を教えていたとの情報もある。

ハリーと妻ミュリエルさん=1917年9月(ジェラルディン・リーデックさん提供・共同)

 英国の暮らしになじみ、読書や絵を描いたりすることが好きだった。日本国籍のままだったが、寡黙で紳士的、日本のことは多くを語らなかった。ジェラルディンさんは父が日本語で独り言を話していたことを覚えている。子どもたちには日本語や日本の文化を教えることは一切なかった。英国人として生きていくと決意しているかのようだった。

 それでもジェラルディンさんは父がある時語った言葉が忘れられない。「将来どこで、何をしようが、自分の祖国や文化を悪くいうようなことは絶対にするな」。

 1923年、関東大震災が起きた。ジェラルディンさんは、日本の家族を案じた父が日本大使館を通じてその消息を探したと母から聞かされた。だが、得られた情報は「自宅があった場所は跡形もなくなってしまった」ということだった。父の兄が米国に渡ったという話も伝わったが、広い米国を探す手がかりはなかった。

敵性外国人

 同盟国として友好な関係を維持した日英が戦った第2次大戦。「敵性外国人」となったハリーが当時どんな扱いを受けたのか、幼かったジェラルディンさんは「分からない」という。ジェラルディンさん自身は、ロンドンの女学校で父が日本人であることを理由に差別を受けたことはなかったと話す。「インド人もユダヤ人もドイツ人の女の子もいた。他にも日本人の友達がいました」。

 ジェラルディンさんはその後、母の実家、英南部ヘイスティングズに母と2人で移り住んだ。母の父親、つまりジェラルディンさんの祖父が妻を亡くし、独り暮らしをしていたため、その面倒を見るためだ。この時期、ロンドンの父ハリーや他のきょうだいとは離れて住んでいた。ジェラルディンさんは週末にヘイスティングズにやってくる父と会うのを楽しみにしていた。

 英国に住んでいたビジネスマンらを中心に日本人は一時、英国内のマン島などで強制収用された。米国の日系人強制収容所のように収容者が過酷な扱いを受けたのではなく、英国では日本人は日英の捕虜交換により比較的短期間で送還された。ハリーも強制収容されたのではないか。ジェラルディンさんは「父がいなくなってさみしかったという記憶はない。全く気付かなかった」と話す。

 インタビューに同席してくれたジェラルディンさんの長男ウィムさん(61)は、ハリーは仮に収容されたとしてもごく短い間で、「英当局もハリーの身辺調査をしたが、何もしないとの結論に達したのではないか」と語った。

ジェラルディン・リーデックさん(左)と長男ウィムさん=9月、オランダ・ロッテルダム近郊(共同)

世界をこの目で

 ジェラルディンさんに「わずかでも自分が日本人だという意識はありますか」と聞いた。答えはノー。ジェラルディンさん自身も20歳でオランダ人と結婚、英国を離れた。特に、オランダ領だったインドネシアでの旧日本軍の捕虜虐待などからオランダは反日感情が根強かったため、友人らには自分の父が日本人であることを明かさなかった。英国人として生きたハリーの娘は英国人意識以外を持ちようがなかった。

 だが、自分が生まれる前に祖父ハリーがなくなったウィムさんにとって、思いはやや異なる。同じような立場の米国在住のいとこと、祖父が「どんな国に生まれ、どんな人だったのだろう」と想像をめぐらせている。

 ウィムさんは2005年、日本を初めて旅した。旅の途中で訪れた祖父の故郷、横浜で、20世紀初めの風景をあしらったはがきを目にした。祖父が暮らした街はこんな感じだったのだろうか―。「開かれた港町で日頃から外国人を目にしていて、祖父は自分の目で世界を見たいと思ったのかもしれません」。日本からインド、英国に渡り、英雄となった祖父にウィムさんは思いをはせた。

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