忘れ去られた「国家売春」の過去

By 江刺昭子

1945(昭和20)年8月30日、厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥(中央)。先遣隊のアイケルバーガー米第8軍司令官(右端)らが出迎え

 74年前の夏、敗戦で多くの日本人が茫然自失しているなか、東久邇内閣が手をつけたのは、占領軍将兵に女を提供する慰安所をつくることだった。

 敗戦からわずか3日後の8月18日、内務省警保局長が現在の知事にあたる全国の府県長官宛てに「外国軍駐屯地における慰安施設について」を打電。速やかに性的慰安施設、飲食施設、娯楽場を設けるよう指令した。

 国務大臣の近衛文麿は警視総監を呼んで、「国体護持」のため慰安所設置の陣頭指揮をとるよう要請している。国体とは天皇を中心とした国家体制のこと。それと売春施設はどう関わるのか。事態の推移がそれを明らかにする。

 これを受けて警視庁は東京料理飲食業組合の組合長らを呼び出し、資金は政府が援助するから、至急、各種慰安施設をつくるよう命じた。

 都下の接客業7団体を擁する同組合は、23日には特殊慰安施設協会(のち「RAA協会」と改称=Rはレクリエーション・Aはアミューズメント・最後のAはアソシエーション)を立ち上げ、28日に皇居前広場で宣誓式を行っている。ついこないだ、天皇の終戦詔勅を聞いて集まった人びとが地べたに伏して嗚咽(おえつ)した場所である。

 協会は「新日本再建の発足と、全日本女性の純血を護るための礎石事業たることを自覚し、滅私奉公の決意を固めた」と胸を張っている。(『RAA協会沿革誌』)

 「全日本女性の純血を護る」とはどういうことか。

 昨日まで「鬼畜米英」と呼んだ軍隊がやってくる。そうなると日本民族の純血が汚れる。国民が騒ぐ。国体の護持が危うくなる。「性の防波堤」として女性たちを差し出そうというのである。

 28日は占領軍の先遣隊が上陸した日で、協会は女性をかき集めて大森海岸に第1号慰安施設「小町園」をオープンしたが、慰安婦の数が足りない。

 そこで事務所を構える銀座7丁目の「幸楽」前に看板を出した。

 「新日本女性に告ぐ 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳迄。宿舎、被服、食糧全部当方支給」

 新聞にも「急告 特別女子従業員募集 衣食住及高給支給 前借ニモ応ズ 地方ヨリノ応募者ニハ旅費ヲ支給ス」という広告を載せた。

 戦災で親や家を失い途方にくれている女性たちにとって、住む場所だけでなく、食べる物も着る物も支給してくれるとはありがたい。まさか売春が仕事とは思わず、第一次募集だけで千人以上も集まったという。

 神奈川県では警察部保安課が挙げて取り組み、横浜や横須賀など県下23カ所に慰安施設を設けた。その一つはマッカーサーが来日直後に執務室として使ったホテルニューグランドの目と鼻の先にある互楽荘。400室もあるモダンなアパートメントだった。

 小町園にも互楽荘にも占領軍将兵が長蛇の列を作った。それでも米兵による多数の強姦・強盗があったことが記録されている。

 ところが、慰安所に並ぶ兵士たちの写真が米国のメディアで報じられたことから、米国の留守家族や女性団体からの抗議が司令部に殺到。性病もはびこったため、GHQは46年1月、各地の慰安所を「オフ・リミット」にした。「国体護持の女」は放りだされ、許可を受けた集娼(しゅうしょう)地域に流れるか、「パンパン」「闇の女」と呼ばれる街娼(がいしょう)になっていった。

 歴史上、戦争で負けた国はたくさんあるが、政府と警察が主導して占領軍相手の売春施設をつくった国は聞いたためしがない。日本は明治以来、公娼(こうしょう)制度を設け、軍隊の行く先々に慰安婦を伴って当然とした国である。男性それぞれが自分の所有物とみなしている妻・娘・良家の子女たちに害が及ばないように、一部の女性たちの性を犠牲にしたことになる。

 日本の女性団体も黙っていたわけではない。明治時代から廃娼運動をしてきた日本基督教婦人矯風会が内務省にRAAの廃止を求めた。だが、それは慰安婦の存在が「国家の恥辱」だからという理由であって、彼女たちの人権問題とはとらえていない。女性たちは分断されていたのだ。

 正史はこの国家売春の過去を顧みない。敗戦後の混乱期のこととして忘れ去り、消し去っているかに見える。

 だが、今もセクハラなどの性暴力がまかり通っているのは、こうした過去に真摯に向き合ってこなかったからではないか。自分の生と性をどのように生き、他者のそれをどのように尊重するか。重い教訓が含まれているはずだが。(女性史研究者・江刺昭子)

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