元鷹ファルケンボーグ氏が語る“今”と福岡の魅力 「本当に特別な場所」

ソフトバンク、楽天でプレーしたブライアン・ファルケンボーグさん【画像:パーソル パ・リーグTV】

現在はアリゾナで不動産関係のビジネスを手かげるファルケンボーグ氏

現在もあらゆる分野で活躍する外国人OB選手に、日本プロ野球外国人OB選手会の協力のもとで話を聞く本連載。日本球界に寄せる思い、“あの場面”のエピソード、当時の同僚たちへのゆるがない敬愛など、我々の胸を熱くさせた言葉の数々をご紹介したい。

今回は元ソフトバンク、楽天のブライアン・ファルケンボーグさんだ。ファルケンボーグさんは、抑えても打たれても表情を変えない寡黙で真面目な当時のイメージと変わらない姿で、現役時代を懐かしむように語ってくれた。

――現在はどちらにお住まいで、何をされていますか?
「今はアリゾナのスコッツデールに住んでいて、商業用のビルディングなどをいくつか保有し、不動産関係のビジネスをしています。多くの引退した選手がアリゾナに住んでいますし、MLBの春季キャンプもアリゾナで行われています。私がMLBでプレーしていたときには、春季キャンプでイチローさんや野茂さんなど、多くの日本人選手を見ましたよ。ここはアメリカの野球の一大拠点となっていますからね。夏は少し暑すぎる日もありますが、それ以外の時期はとても快適です」

――2009年に摂津正さん、馬原孝浩さんとの勝利の方程式が「SBM」と呼ばれていたのはご存知でしたか?
「もちろん、知っていましたよ。日本での初めてのシーズンでそのニックネームを聞きました。今になって思うと、自分の中でも大きな自信となり、日本でのキャリアを良い形でスタートできたと思っています。チームが接戦の中でも私を起用してくれたことは自信につながりました。

監督(秋山幸二氏)も我々のことを信頼してくれていましたし、例えば1人の選手が3、4日の連投があった際は、しっかり休養を取らせて他の2人に任せるなどの起用が可能だったので、チームにとっても有効だったと思います」

田中将大はファルケンボーグ氏のスプリットを参考に「取材を受けた」

――有名なエピソードなのでご存知かも知れないですが、ヤンキースの田中将大投手(ヤンキース)が雑誌であなたのボールの握り方を見てスプリットを習得したとか。
「はい、聞いたことがあります。彼がヤンキースに行ったときにそのエピソードを話したようで、NYの記者の方から私が取材を受けたんですよ、そのときの詳細をね。田中投手は私のことを少し買い被りすぎだと感じているのですが、実際にその雑誌から取材を受けたことは覚えています。

記事の内容は日本語だったので読むことができませんでしたが、田中投手は信じられないほどの才能を持った投手ですし、私の記事を読んで握り方について言及をしてくれていることは、私のキャリアの中でもとても誇らしいことです。彼は本当に偉大な投手ですし、日本で彼と対戦する際に、ホークスの選手が『今日は田中投手との対戦だから完封されないように気を引き締めないと』と言っていたのを覚えています。彼はMLBでも活躍していますし、彼のピッチングにはとても興奮させられますね。

田中投手は、彼やヤンキースのファンでなくても尊敬されるような投手です。試合を支配するようなピッチングをしますし、彼が日本シリーズの第6戦で先発し、7戦目でクローザーを務めたこともあった。それこそが田中投手の真髄だと思います。彼のメンタリティやチームを鼓舞する力などはとてもすごいと思います。前日に100球以上を投げ、次の日も勝つためにクローザーとしてマウンドに上がって締める。それこそが、田中将大という投手なのだと思います」

――あなたはパワーピッチャーですが、制球もとても良かった。何か心がけていたことはありますか?
「“バッターをアウトにする”という点を常に心がけていました。ボールをバットに当てられるということに対しての恐怖心は一切抱かなかったですね。私がMLBのナ・リーグでプレーしていたとき、投手でも打席に立つことがあったのですが、打つのはこんなにも大変なのかと思ったんです。そこで、考えが変わったのです。

自分に負けてフォアボールを出すくらいなら、ヒットを打たれた方が良いと。そこから、ストライクゾーンにボールを投げようと心がけるようになったのです。日本でのキャリアの中でも、タフに投げ、次につなぐということは私のプライドにもなりましたし、アグレッシブでいることに対して効果があったと思います。

あとは、ホークスのコーチが、私のピッチングがどれだけ日本のバッターに対して有利かを教えてくれていました。たとえボールに当てられたとしても、フライやゴロになっていたので、メンタル面でとても助かっていました。ストライクゾーンに投げ、自分の有利なカウントにすれば、スプリットやスライダーなどで相手を仕留められますし、強気の勝負を仕掛けられるようになりますからね」

「日本でのキャリアをスタートさせるうえで、福岡以外に良い場所なんて想像できない」

――長く過ごされた福岡でのエピソードはありますか?
「私も妻も福岡が大好きです。大都市ですが、魅力のあるスポットが各所に散らばっていて、海の近くをジョギングしたり、私の住んでいたところから福岡ドームまで歩いて行けましたし、ビーチや、スーパーマーケットにも歩いて行けたので、なんでも揃っているという感じでしたね。

覚えているのは、あるデーゲームの試合後にビーチのそばにあるレストランへ行ったんです。そこで他の外国人と子どもたちや妻が一緒に遊んでいたのですが、私は1人で外でリラックスしていました。一番下の娘は福岡で生まれたのですが、ふと日本でのキャリアをスタートさせるうえで、福岡以外に良い場所なんて想像できないなと思ったんです。福岡の人々やコーチ、そしてチームメイトたちは私だけでなく、家族も受け入れてくれ、居心地を良くしてくれたのです。

日本が大好きですが、私にとっては家族が全てで、家族の幸せは私の幸せなんです。家族みんな福岡が好きですし、いつかまた福岡へ行けたらいいなと思っています。一番上の子は福岡での思い出がたくさんありますし、思い出の場所にもう一度連れて行ってあげたいなと思います。短期間でしたが、子どもたちは学校にも通っていましたし、一番下の娘が生まれた病院もあります。家族でよく過ごしていた場所にもまた行きたいですし、それにホークスの試合も観に行きたいですね。福岡は私の心の中にもとても大事な場所として残っています。私のキャリアを振り返った時に、アメリカでプレーをしていたことはあっても、福岡でキャリアの多くを過ごしました。現役時代はどこよりも長く福岡で過ごしていたんです。本当に特別な場所ですね」

――日本のファンへのメッセージを。
「今の状況は世界中で影響が出ていると思います。隔離生活を強いられていますし、ここアリゾナでも制限が多々あります。子どもたちの学校も休校になっていてオンラインでの授業ですし、さまざまな障害があります。でも、一刻も早く日常に戻れるようにと思っています。

なんだか春が来ていないような感じがするのは、野球がやっていないからでしょうか。毎年、春になれば野球が始まって、夏を通してそこに野球がありました。今はそれがありません。本当に寂しい限りです。日本でも野球を待ち望んでいる人が大勢いると思います。一刻も早く日常を取り戻すために、責任を持った行動が重要だとも感じています。

私が日本にいたときに見た、震災や津波の被害の中でも日本の人たちがお互い助け合う姿を覚えています。あの年はプロ野球の開幕も1か月ほど遅れ、電力削減のためにナイターがなかったりしましたが、我々は共に乗り越えました。その年(2011年)にはホークスが日本シリーズを制しましたよね。私も日本でその逆境に直面しましたし、その際に日本の人々が野球を心待ちにしていたのも覚えています。

私と同時期にプレーしていた選手たちは、もうベテランになっていますね。まだチームの主力の選手もいるかも知れません。試合のスタッツを見ても、選手がわからなくなってきていますが……。でも、日本の方々が野球に対してどれだけ強い想いを持っているかを知っていますし、日本でもアメリカでも多くの人が野球の歓喜が戻ってくることを願っています。

日本にいるファンの方々へあらためて感謝を伝えたいですし、野球もそして日本のことも恋しく感じています。この困難はきっと乗り越えられると思いますし、一緒に乗り越えられていければと思います」

(取材協力:日本プロ野球外国人選手OB会)
(インタビュー:高木隆)(「パ・リーグ インサイト」海老原悠)

(記事提供:パ・リーグ インサイト)

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