坂本龍一「B-2ユニット」極限状態の1980年に制作された “神領域” のアルバム  常識では考えられなかった “教授” の仕事量

__リ・リ・リリッスン・エイティーズ〜80年代を聴き返す〜 Vol.39
坂本龍一 / B-2 UNIT__

坂本龍一が、どんなに忙しくてもどうしてもつくりたかったソロアルバム

以前、大貫妙子の『ROMANTIQUE』について書いた時にもちょっと触れましたが、坂本龍一 “教授” の1980年は(その前後もそうなんですが)、信じられないくらいの過密スケジュールでした。列記してみます。

1979年
12月19日、“Yellow Magic Orchestra” の最初のワールドツアー「TRANS ATLANTIC TOUR」 最終日(東京・中野サンプラザ)

1980年
2月1日、YMOライブアルバム『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』リリース
3月21日→4月15日、YMO最初の国内ツアー「TECHNOPOLIS 2000-20」
3月25日、Phew1stシングル「終曲(フィナーレ)/うらはら」リリース(プロデュース)
5月1日、南佳孝5thアルバム『MONTAGE』リリース(6曲編曲+演奏)
6月5日、YMO4thアルバム『増殖』リリース
6月21日、高橋幸宏2ndソロアルバム『音楽殺人』リリース(演奏他)
7月21日、大貫妙子4thアルバム『ROMANTIQUE』リリース(6曲編曲+演奏)
9月21日、スーザン1stアルバム『Do You Believe In Mazik』リリース(演奏)
9月25日、加藤和彦6thアルバム『うたかたのオペラ』リリース
(ベルリンレコーディングに参加予定も急病でキャンセル。一部演奏)
9月25日、フリクション1stアルバム『軋轢』リリース(プロデュース)
10月1日、矢野顕子4thアルバム(2枚組)『ごはんができたよ』(共同プロデュース)
10月11日→12月24日、YMO第2回ワールドツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」
1981年3月21日、YMO5thアルバム『BGM』リリース

公になっているプロダクツとコンサートだけでこれです(ひょっとしたらまだ漏れているかもしれません)。ここにさらに、9月21日のリリースで、自身の2ndアルバム『B-2 UNIT』が加わるのです。

音楽制作にかかる時間は、やり方によって全然変わりますが、作曲、編曲、プロデュースと深く関われば、やはり1枚のアルバムで3ヶ月くらいにはなるでしょう。もちろんその間ベッタリ拘束されるわけではなく、考える時間なども入れてということですが、要するにそういう仕事なら年に4作がせいぜいなんです。しかるに、この年の教授は、その関わり方の濃淡はピンキリながら、なんと10アルバム+1シングルに関わり、さらに全国ツアーとワールドツアーまでこなしています。常識では考えられない仕事量です。

私のような凡人の経験など参考にならないかもしれませんが、高校受験と大学受験のため深夜まで勉強せざるを得なかった中3および高3の時期のほうが、ぼーっと過ごしてしまった大学時代よりも、(受験と関係ない)本をたくさん読んでいたことを思い出します。脳が活性化していたんだと思います。教授もこの頃は音楽的なクリエイティヴィティが泉のように溢れまくっていたんじゃないでしょうか。

ですが一方、YMOは前年後半から大ブレイク、当然、様々なメディアへの出演や取材など、音楽創作とは直接関係ない仕事の要望も殺到したはずです。もちろんレコード会社はチャンスとばかりに次のプロダクツを、しかも売れるものの制作を急がせたでしょう。それをなんとかかわしたのが、『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』というライブ盤と『増殖』というミニアルバムだったわけですね。

そういう煩わしい状況に嫌気が差して、教授は早くもYMO脱退をほのめかしていたようです。実は『B-2 UNIT』の制作費は、アルファレコードから、「YMO残留」と引き換えに出してもらったみたいです。つまり、寝る暇もないほど忙しい中、最も拘束時間が長いYMOとしての活動に耐えてでも、つくりかったのがこの『B-2 UNIT』ということになります。

坂本龍一にしかつくれない音色とメロディ

だけど、この殺人的スケジュールの中でつくられたとは思えないほど、この『B-2 UNIT』は画期的な作品だったと思います。

坂本龍一を坂本龍一たらしめているものは、私は(とりあえず)2点あると考えています。ひとつは「オリジナルな素晴らしい音色」。もうひとつは「繰り返しに耐えうるメロディ」。

「生楽器」はそれぞれに特有な音色を持っていますが、それ以外の音色は出せません(製作者や演奏者の技術による違いは別の話)。エレキギターというものが出てきて、電気的なエフェクトを加えることでオリジナルな音色もつくれるようになりました。シンセサイザーはもっとその領域を広げました。ただしこの時代のシンセはまだアナログで、音色はいろいろなツマミを微妙に調整していちいちつくらなければなりませんでした。

なのでプロの音楽制作現場には、松武秀樹さんのような「マニピュレーター」と呼ばれる専門家がいたのですが、彼らは、言うなれば、赤と青の絵の具を出して、これを混ぜれば紫になるよ、と教えてくれる人。どういう色合いでよしとするかは、そのサウンドディレクションを行うアレンジャーなりプロデューサーのセンスしだいです。

教授はそのセンスが抜群によかった。シンセであんなに気持ちよい音色をつくれる人は世界的にもいなかったと思います。『B-2 UNIT』発売当時の「ミュージック・マガジン」で、中村とうよう氏はやや批判的に「アルバム全体はクラフトヴェルク(クラフトワーク)やジョン・ケージやテリー・ライリーの線に近すぎるように聞こえる」と評しておられますが、テリー・ライリーが同時期にリリースしたアルバム『Shri Camel』を今聴くと、その音色はオモチャみたいに安っぽく感じます。とても教授の比ではありません。

ポップミュージックの構造は、「繰り返し」と「変化」のバランスでできています。歌のメロディも、4小節や8小節でひとかたまりのラインとなっていますが、それを1回やるだけで、違うメロディにいくことはないですね。必ず、(おしまいの部分を少し変化させたりしつつも)繰り返します。2回か4回。でもそれ以上はまずない。もう変化しないといられない。繰り返すことでその世界観をしっかり味わえる、でも変化することで飽きさせない、ということなんでしょうね。

そう、ふつうは4回以上も繰り返せないんですよ。そのメロディに飽きちゃうから。だけど教授がつくるメロディは、不思議なことに、何度繰り返しても飽きない。典型的なのは、4thアルバム『音楽図鑑』(1984年)収録の「PARADISE LOST」。歌もなく、シンセでつくった4小節パターンのメロディが繰り返されるだけですが、これが飽きません。一応4回繰り返したら消えるという変化をつけているのですが、消えている間は主旋律がないので、メロディはそのワンパターンのみ。

しかもさらに分解すると、1小節目と3小節目は同じメロディ、2小節目はその最後の1音が違うだけと、ここでも繰り返しているので、ほんと繰り返しだらけなのですが、それが5分半も続く曲なのです。こんな摩訶不思議で強力なメロディをつくれる人は坂本龍一以外にいません。

「B-2 UNIT」で確立した音色とメロディ

そういう坂本龍一ならではの「音色」と「メロディ」が、この『B-2 UNIT』で確立しました。前作、1978年発売の1stアルバム『千のナイフ』も野心的な作品だと思いますが、表現したいものの輪郭が、まだくっきり描かれていないと感じます。それが『B-2 UNIT』では、音色とメロディにおいて、焦点がピタリと合った。音色の重要性をはっきりと意識していたのは、「音の質感・肌触り、音像などにこだわった」という本人の発言で明らかです。

メロディについては、特に成功しているのが収録曲の「ライオット・イン・ラゴス」です。ここではメロディは大きく分けて2パターンあり、それぞれ4回単位で繰り返しては替わっていく形ですが、どちらもその面白い音色と相俟って、斬新だけど同時に懐かしいような感覚が秀逸で、「繰り返しに耐えうるメロディ」になっています。

“Mantronix” というニューヨークのエレクトロ・ファンク・バンドはこの「ライオット・イン・ラゴス」にインスパイアされて、音楽の方向性が定まったそうです。世界レベルのオリジナリティを持つ曲だということですね。

改めて、あんなスケジュールの中でこのアルバムがつくられたことに驚きを感じますが、逆に、そんな極限状況だからこそ、神の領域に届いたのかもしれませんね。

カタリベ: ふくおかとも彦

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