東日本大震災から12年 日本の「恩返し」が世界を救う!|和田政宗 12年目の3月11日、南三陸町志津川、名取市閖上で手を合わせた後、東松島市の追悼式、石巻市大川小の追悼式に。お亡くなりになった方々が空から見た時に、「街も心も復興が成ったなあ」という復興を成し遂げていかなくてはならない。そして、東日本大震災の経験を、国内外の人々の命を守ることにつなげていかなくてはならない。

東日本大震災、台湾からの「恩返し」

今年の3月11日で東日本大震災から12年となった。

被災地のインフラなどハード面での復興は着実に進んでいるが、復興公営住宅入居者の孤立や高齢化への対応などソフト面での対応がより強く求められている。年を経るごとに状況は変わってきており、復旧ではなく真の復興に向けて歩みを止めてはならない。

東日本大震災においては、250億円の義援金を送ってくれた台湾をはじめ世界各国が義援金や救援隊を送ってくれた。これは日本の大被害に心を痛めた各国国民や各国政府による行動であるが、こうした支援につながったのは、日本が過去においても現在においても世界のどこかで地震災害が起きれば、緊急援助隊を派遣し義援金の送付を行うとともに、災害対応や防災で世界をリードしてきたことにある。

今回はこうした日本の取り組みについて記したい。

東日本大震災における台湾による特に大きな支援は、日台の友好関係のみならず、台湾の過去の地震災害における日本の援助への恩返しがあった。平成11(1999)年9月21日、台湾中央部南投県集集付近を震源に発生したマグニチュード7.7の大地震では、死者・行方不明者が2300人を超える大被害となった。

日本はすぐさま緊急援助隊を送り、世界各国に先駆けて当日中に被災地に到着し救助活動を始めた。さらに、仮設住宅を1500戸寄付し、義援金を送った。この時の日本の援助に対し台湾の方々は大いに感謝し、東日本大震災の時には、「今こそ921大地震の恩返しを」と呼びかけられ、多額の寄付を日本に送ってくれたのである。

トルコ外相「日本からの義援金が最も多い」

この他にも、22万人が亡くなった2004年のスマトラ沖地震、8万人が亡くなった2005年のパキスタン大地震にも日本は緊急援助隊救助チームを送っており、東日本大震災以後も2015年のネパール地震、2017年のメキシコ中部地震、今年発生したトルコ・シリア地震などの大地震に緊急援助隊救助チームを派遣している。

トルコへの義援金については、トルコ外相より「日本からの義援金が世界各国の中で最も多い」と感謝の言葉が述べられた。また、2016年の台湾南部地震では緊急援助隊先遣隊と物資、2018年の台湾の花蓮地震では緊急援助隊(専門家チーム)を世界各国の中で唯一派遣した。

このように、日本は国内外の災害で得た救助活動の経験を各国での救助に活かし、復旧活動についてもアドバイスを行ってきた。これら大災害時の日本の行動は被災各国のみならず世界各国から高い評価を得ている。

さらに、防災においても国際的に日本はリーダーシップを発揮しており、過去3回にわたって開かれた国連世界防災会議の開催地はいずれも日本であり、平成27(2015)年3月に開かれた会議では、国際的な防災の取組指針として「仙台防災枠組2015-2030」が採択された。そして、同じ年の12月には、日本の提案により国連総会において、毎年11月5日を「世界津波の日(世界津波啓発の日)」とすることが採択された。

この「世界津波の日」は、1854年11月5日の安政南海地震による大津波の際に、和歌山県広川町の住人・濱口梧陵が、自らが収穫した稲むらに火をつけて住民に警報を発し、避難させたことにより命を救った「稲むらの火」の逸話に由来する。国連本部での啓発イベントや国連防災機関とともに国際会議を開催してきた。

「津波(Tsunami)」と伊達政宗

なお、国際語になっている「津波(Tsunami)」は、1611年の慶長三陸大津波の後、仙台藩主伊達政宗公が、徳川幕府への報告の際に初めて用いた言葉である。徳川家康の行動を記録した『駿府政事録』に記されている。それまで津波は「大海嘯(だいかいしょう)」と呼ばれていた。

慶長三陸大津波は、東日本大震災と同等かそれ以上の津波が沿岸を襲ったと推定されており、伊達政宗公は復興事業に力を注ぐと共に防災にも力を入れた。政宗公は津波が襲った仙台平野沿岸に防災林としての植林を命じた。その命のもと、和田一族である和田為頼・房長親子が二代に渡って植林を手掛け、その後も繰り返し沿岸を襲った津波の被害軽減に繋げてきた。

しかし、東日本大震災ではこれらの防潮林は津波で押し倒された所も多く、いかに速やかに避難するかの課題が一層明らかになった。

南海トラフの巨大地震では最短2分で津波が到達するとされる。世界各国でも津波に繰り返し襲われている地域がある。我々は東日本大震災の経験を、国内外の人々の命を守ることにつなげていかなくてはならない。

大川小学校と釜石東中学校の教訓

東日本大震災の際、宮城県石巻市の大川小学校では、津波到達まで50分あったが、教職員による避難の判断が遅れ、児童74人教職員10人が亡くなった。

大人がいて子供の命が失われたのは極めて深刻であり、児童の中に学校の裏山に避難することを提起した子がいたが、教員がそれを否定し結局逃げ遅れてしまった。裏山は普段から校外学習に使われており、早く逃げていれば全員が助かった可能性がとても高い。

一方、岩手県釜石市の釜石東中学校では、地震の後、校庭に出た生徒210人に、副校長が「点呼はいいから走れ!」の指示で、即座に高台に向けて走って避難した。近くにあった鵜住居小学校では、一時校舎3階に避難を始めたが、地元消防団の呼びかけで高台避難に切り替え、釜石東中の生徒が鵜住居小の児童の手を取り走って避難した。

さらにいったん避難した高台にも津波が到達する危険があると分かると、さらに海抜の高い峠まで逃げた。こうして学校にいた児童生徒は全員が助かった。

こうした津波避難で得た知見を我々は日本国内のみならず世界に発信をし、世界の人々の命を守ることが重要であり、日本が世界で果たなければならない役割であると考える。

2004年のスマトラ地震津波以後、インドネシアにおいて、「稲むらの火」を題材にした絵本を配布したり小中高校で授業が行われてきた。我々はさらに東日本大震災という悲惨な被害の経験を、世界各国の防災に活かすことに変え、貢献していく。

我が国は数々の災害の際に世界から支援を受け、復興を成し遂げてきた。防災分野や災害対応で恩返しをするとともに、これらの分野への日本の貢献は世界の平和と安定につながるはずだ。

著者略歴

和田政宗

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