YMO「X ∞ マルティプライズ」画期的なスネークマンショーとのコラボレーション!  サウンドもコントも超一級!ーー社会現象化し、時代のアイコンとなっていくYMO

リ・リ・リリッスン・エイティーズ〜80年代を聴き返す〜 Vol.40
イエロー・マジック・オーケストラ / 増殖 - X∞ Multiplies

前回は、坂本龍一が『B-2 UNIT』の制作コストをアルファレコードから、もう辞めたかった “Yellow Magic Orchestra” に残留することを条件に、負担してもらったという話をしましたが、今回はそのYMOの1980年発売アルバム『増殖 - X∞ Multiplies』を聴き返します。

その前に訂正です。前回、坂本氏関連の1980年スケジュールを羅列しましたがその中で、フリクションのアルバム『軋轢』のリリース日を「9月25日」としたのは間違い。「4月25日」が正しいようです。お詫びして訂正させていただきます。

「パブリック・プレッシャー / 公的抑圧」はYMOの “お茶濁し”?

さて、1979年9月25日にリリースされたYMOのセカンドアルバム『SOLID STATE SURVIVER』はオリコンチャート1位となり、ミリオンセラーとなりました。作品が売れてうれしくないアーティストはいないと思いますが、当然それは、音楽以外のことも含めて、3人のメンバーの動向に一々注目が集まるという現象を伴って、ストレスフルな環境をもたらします。

メディアへの出演依頼なども殺到し、俄然忙しくなりますが、前回も触れたように、3人とも以前から引く手あまたの売れっ子ミュージシャン&クリエイターとして、YMO以外の仕事もギッシリ抱えていました。

そしてレコード会社も、このチャンスを逃さじと、早く次のYMOプロダクツをつくれ、出せ、と圧力をかけてきます。考える時間もないのに、どうやって新作をつくれというのか……で、とにかく “お茶を濁した” のが、ライブアルバム『パブリック・プレッシャー / 公的抑圧』でした。

1980年の2月21日に発売され、まだ『SURVIVER』がチャートに残る中での待望の新作ということで、オリコン1位を獲得、約40万枚を売り上げ、(おそらく発生していたと思われる)ワールドツアーへの「制作援助金」も軽く賄えて、アルファレコードとしてはホクホクだったかと思います。

でも私はこのライブアルバムは好きじゃないな。だいたい、ライブ公演の時点ではレコード化の予定はなかったんじゃないかと思うんですね。人間じゃなく機械でつくるクールなグルーヴが「テクノポップ」のメインコンセプトなのに、それを人間で再現している「ライブ」をレコードという作品にすることの “矛盾” を、細野さんたちが気にしないはずがありません。

もちろん彼らは演奏家としても一流だから、ライブも当然しっかりしてますし、ステージデザインもよかったので、コンサート自体には価値があると思いますし、映像コンテンツとしての作品化ならアリでしょう。だけど音だけなら、記録・記憶としての意味しかない。それでも売れるんだから、商品としての意味はあったんでしょうけど。

前回、坂本龍一の “音色のセンス” を褒めました。で、音色のセンスがよい人として、坂本氏の次に思い浮かぶのが細野晴臣なんです。(私の中では)日本で一番と二番の “音色名人” をともに擁することが、YMOのすごさのひとつです。音色のよさがYMOの音を、今に至るまで劣化させない大きな要因です。高橋幸宏も二人に感化されて、自身のソロアルバムの音色がどんどんよくなっていくし。

その音色が、ライブでは会場の残響ですっかり崩れてしまっています。溶けたアイスクリームのようです。ずぶ濡れの子犬のようです。スタジオレコードでの彼らの音色は、たとえエコー感があったとしてもあくまでヴァーチャル、空気感はよけいなのです。

渡辺香津美のギターがすべてカットされているのも解せません。レコード会社の専属問題が理由とされていますが、普通は「courtesy of “レコード会社”」表示で処理していることです。坂本氏が『千のナイフ』(1978年10月発売)では渡辺氏と同じ日本コロムビアだったのに、YMOでアルファに行ってしまったから、対抗意識(?)で許諾しなかったのでしょうが、それにしてもライブアルバムにするなら、事前に話しておくべきだし、それで解決できなかったらライブを別のギタリストでやるべきだったでしょう。私が「レコード化の予定はなかった」と考えるもうひとつの理由です。

省エネづくりながら画期的だった「増殖」

今回は、『パブリック・プレッシャー』の3ヶ月半後にリリースされた『増殖』について書くつもりだったのに、前置きが長くなってしまいました。

内容はともかくも、「商機を逃さじ」とするレコード会社の要望には充分応えた……はずなのに、今度はライブ盤の続編をぜひ、と打診してきたそうです。細野さんもさすがにそれは否定して、代わりに捻り出したのが『増殖』でした。

“Archie Bell & the Drells”「Tighten Up」(1968)のカバーと映画『荒野の七人』のテーマ曲をイントロに拝借した軽めの曲「MULTIPLIES」、坂本氏の「THE END OF ASIA」のセルフカバーというかセルフパロディ、A&Mレコードから要望された米国向けシングルとして先に録音された(ただし米国では発売されず)「NICE AGE」と「CITIZENS OF SCIENCE」に、“スネークマンショー” のネタを挟んでいく(あるいはネタに曲を挟んでいる?)、というできるだけ省エネなアルバムづくりは、殺人的なスケジュールとビジネス面でのプレッシャーをギリギリのところで躱しながら、自分たちのクリエイティブマインドは譲らないという、苦肉のと言うかアクロバティックと言うか、だけど素晴らしい解決策(作)ではないでしょうか。

特に、これですっかり有名になったスネークマンショーとのコラボレーションが画期的でした。

スネークマンショーのパフォーマンスがもたらしたもの

音楽では、何度も聴きたくなることがその価値の高さに直結します。だから繰り返し聴くことを前提としているレコードというメディアが適しています。だけど、「笑い」というものは基本的に「意外性」で成り立っています。常識ではありえない展開だから面白い。でもプロットだけの面白さならば、それを知ってしまえばもう笑えません。「意外性」がなくなってしまうからです。

だから笑いのレコードはむずかしい。その芸人の人気による瞬発的なヒットはあっても、私の観る限り、コメディソングで陳腐化していないのは、“クレージーキャッツ” の「スーダラ節」(1961)から「遺憾に存じます」(1965)あたりまでの一連の作品群だけです。これは青島幸男の歌詞、萩原哲晶のメロディとアレンジ、植木等の表現力が合体して、ちゃんと音楽的に結晶しているからだと思います。

スネークマンショーのパフォーマンスも、プロットの面白さだけじゃなく、声のトーン、「緩急」や「間」のリズムなどが、繰り返しに耐える力を持っているのです。そしてその笑いの質がちょっと違えば、アルバム全体が単なる企画モノに終わってしまったかもしれないところ、YMOメンバー、特に細野さんとユキヒロ氏のその後の言動などにそこはかと漂う「おかしみ」と、スネークマンショーのシニカルでクールな「笑い」がどこか通底していることで、このコラボレーションが結果的にYMOの存在感に、音楽だけじゃない、立体的な広がりをもたらした、と私は感じます。

このアルバム以降、ますますYMOは社会現象化し、時代のアイコンとなっていきます。

カタリベ: ふくおかとも彦

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