西城秀樹のロック愛が爆発!独立第1弾シングル「ギャランドゥ」が意味するものは?  4月13日は西城秀樹の誕生日!

根っからの “ロックンローラー” 西城秀樹

早いもので、ヒデキが逝ってから今年でちょうど5年になる。元気であれば、4月13日は68歳の誕生日だった。63歳は早すぎたと今でも思う。ヒデキが亡くなって9日後の2018年5月25日、私は青山葬儀所で営まれた告別式に足を運んだ。

出棺の際に流れた「ブルースカイ ブルー」とシンクロするかのように空が晴れ渡り、青空の下ヒデキが旅立ったのはよく覚えている。だが、なんだろう、いまだに亡くなった実感が湧かないというか、私の中でヒデキは今も “現役” なのである。それは生前、ヒデキが遺した残像のせいだ。ヒデキは日本の歌謡シーンにおいて、第一線でずっとエモーショナルに歌い続けた稀有な人だった。そう、ヒデキは根っからの “ロックンローラー” なのだ。

大阪球場で日本人ソロシンガーとして史上初のスタジアムコンサートを行い、10年続けたのも、ロッカーとしての心意気からだ。ロックンローラーたるもの、人気にあぐらをかくのではなく、つねに転がり続けていなければならない。「A rolling stone gathers no moss」(=転がる石にコケはむさない)の精神である。

「シン・ヒデキ」の誕生、独立第1弾シングルが「ギャランドゥ」

ところで、ヒデキが通算10回目の大阪球場コンサートを行い、スタジアムコンサートにひと区切りつけた1983年は、彼の芸能生活にとっても大きな節目になった年だった。1月に、デビュー以来所属していた芸映から独立。新事務所「アースコーポレーション」を設立したのだ。これは円満な形での独立で、ヒデキは本当にやりたいことを自分の責任でできるようになった。

事務所を立ち上げた翌月、2月1日にリリースした独立第1弾シングルが「ギャランドゥ」である。ヒデキは新事務所を軌道に乗せるためにも、どうしてもこの第1弾をヒットさせたかった。しかも、ただ売れ線の曲を歌うのではなく、「シン・ヒデキ」の誕生を世に示す必要があった。

だが、職業作詞家・作曲家に依頼すると、どうしても歌謡曲のセオリーに沿ったものになってしまう。型破りで、とりわけ “エモい曲” を…… ということで曲を依頼したのが、盟友・もんたよしのりだった。

ロックを愛する者同士、普段から交流のあったヒデキともんた。1983年当時、歌謡曲のベスト10チャートにロックアーティストが顔を出すことはもはや当たり前になっていたが、いわゆる “歌謡界” と “ロック界” の間には、まだまだ大きな壁があった。だが、ヒデキともんたは普段から熱いロック談義を繰り広げ、お互い共鳴し合っていた。ヒデキのロック愛が、下らない障壁をブチ壊したのである。

もんたよしのりの造語「ギャランドゥ」

タイトルにもなった「ギャランドゥ」はもんたの造語であり、特に深い意味はない。もんたは歌いながら作曲するスタイルで、この曲も歌詞を適当に口ずさみながら作っていった。「ギャランドゥ」も偶然浮かんだ言葉なのだが、にしては、けっこう威力のあるパワーワードだ。聴く人を高揚させる響きがあるし、この言葉自体が “エモい”。

最高の女性に出逢ったときの衝撃……「ギャランドゥ」はその興奮度を表す間投詞でもある。ヒデキが「♪ギャランドゥッ」とシャウトすれば、「イイ女を見つけたぜッ!」という歓喜の声にも聞こえるし、「抱いてやるッ」にも聞こえる。

そんな都合のいい言葉はないのに、もんたは発明してしまったのだ。そういう魔法の言葉が浮かんできたのはおそらく、ヒデキが歌うことを頭に浮かべながら曲を作っていたからで、その意味では “共作” とも言えるだろう。

この曲、結構ヒットした印象があるが、調べてみるとオリコン最高位は14位、売上げは13.7万枚である。「え、そんだけ?」と思うけれど、裏返すとセールス以上に、世間に大きなインパクトを与えたということだ。80年代におけるヒデキの代表曲になったし、もんたに頼んだのは大正解だった。

ヒデキのファンとしてライブに参戦したジャッキー・チェン

ヘソ毛の話なんか別にどうでもいいが、そんな別の意味を帯びてしまったのも、「ギャランドゥ」という言葉自体が持つ不思議なパワーゆえだろう。ある意味、呪文とも言える。

この「ギャランドゥ」の次にリリースした独立第2弾が、1983年6月発売の「ナイト・ゲーム」だった。元レインボーのボーカリスト、グラハム・ボネットの「Night Games」をカバーしたもので、以降ヒデキのコンサートに欠かせない曲となった。「ギャランドゥ」は「ロックシンガー・西城秀樹」路線を確立した曲でもあった。

「ギャランドゥ」にはこんな逸話もある。80年代から本格的なアジア進出を始めたヒデキ。特に人気が高かったのが香港で、とりわけ男性ファンが多かったのは、これもまたヒデキのロック度の高さを示す事実だ。

現地でのライヴでは、香港の有名スターたちもヒデキを一目観ようと最前列に連日詰めかけた。その中のひとりが、あのジャッキー・チェンである。これにはヒデキも驚いた。ジャッキーは「ちょっと観とくか」ではなく、純粋にヒデキの歌が聴きたいから、いちファンとしてライヴに日参していたのである。

これをきっかけに二人は「音楽仲間」として意気投合し、ジャッキーが来日した際、ヒデキのコンサートにアンコールで飛び入り出演したこともある。そのとき一緒に歌った曲のひとつが「ギャランドゥ」だった。

香港での熱狂的な支持が、フィリピン、シンガポール、やがて1987年の中国大陸進出につながり、1988年、ソウル五輪前夜祭における「傷だらけのローラ」熱唱につながった。ジャッキーをもトリコにした「ギャランドゥ」は、ヒデキが世界への扉を開けた1曲でもあったのだ。

カタリベ: チャッピー加藤

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