1966年6月に静岡県清水市(現静岡市)のみそ製造会社専務宅で起きた一家4人殺害事件。袴田巌さんは無実を訴え続けたが、死刑囚となった。静岡地方裁判所が2014年になって「国家機関が無実の個人を陥れたことになる」とやっと判断し、釈放。しかし、逮捕から48年というあまりに長い身柄拘束と、いつ死刑執行されるか分からない恐怖が、袴田さんの精神をむしばんでいた。
一緒に暮らし始めた姉のひで子さんは、釈放当初をこう振り返る。「巌は最初、目がつり上がって能面のように無表情だった」。裁判のやり直し(再審)は今年3月、ようやく確定したが、司法はそれまで9年も迷走。この間、袴田さんは次第に姉や支援者と打ち解け、時に周囲を笑わせるまでになった。(共同通信=藤原聡)
▽WBCの「名誉チャンピオンベルト」、観衆が喝采
2014年3月27日、東京拘置所から釈放された袴田さんは、出迎えた姉のひで子さんと東京都内のホテルに宿泊した。ひで子さんは「隣で弟が眠っているのを見て、夢でも見ているような不思議な気持ちになった」。袴田さんは服を着たままベッドで眠った。
翌朝、ホテルの部屋から海を眺めながら、ひで子さんが「浜名湖の弁天島に似ている」と故郷の風景になぞらえると、袴田さんは「ここは(静岡県の)大井川か」と尋ねた。袴田さんはこの日、東京都東村山市の多摩あおば病院に入院。48年に及ぶ拘置が心身に与えた影響を考慮したためだ。
5月19日、袴田さんは東京・後楽園ホールへ。リング上で、世界ボクシング評議会(WBC)が贈った「名誉チャンピオンベルト」を手にし、Vサインをして深く一礼。ベルトを掲げて自身の腰に巻くと、会場の観衆から拍手喝采が起きた。
釈放当初の精神状態はどうだったのだろう。多摩あおば病院で主治医になった中島直氏が、雑誌「精神医療」に寄せた手記には、要約すると次のような記述がある。
「入院手続きの時、書類に『袴田巌』と書いてあるのを見て『これは自分の名前ではない』という意味のことを言った。最初は病室にいることが多かったが、徐々に病棟のホールに来てテレビ前の席に座るようになった。自動販売機の使い方を教わり、初めて見る500円玉に驚いていた」
中島氏はある日、袴田さんを表に連れ出し、桜が咲く並木道のベンチに腰かけてボクシングや郷里の浜松の話をした。袴田さんは相づちを打つだけだったが、ぽつりと言った。「自由になれると、いいんだな」
▽外出せず、室内を10時間も歩き回る
釈放から約2カ月後の5月27日、袴田さんとひで子さんは故郷に帰るため東京駅へ向かった。袴田さんが新幹線に乗るのは初めて。「乗り心地がいい…」と感想を漏らし、途中から富士山が見える席に移り、車窓から生まれ育った静岡県の景色を眺めていた。到着した浜松駅では出迎えの支援者に向かってVサイン。記者会見では「気分は悪くない。浜松に戻ってきて一段落だ」と話した。
その後、浜松市の聖隷浜松病院に入院。ひで子さんと病院の周辺を散歩したり、テレビで時代劇を見たりして過ごすうち、口数が少なかった袴田さんは、ひで子さんや支援者らに声をかけるようになった。
6月末からは浜松市のマンション4階にある姉ひで子さんの自宅で暮らし始めた。「いつの日か巌が帰ってくれば一緒に住もう」と考えていた姉の夢はようやくかなった。最初の2カ月間、袴田さんは毎日、家の中をひたすら歩き回った。「一歩も外に出ないで、汗びっしょりになりながら、日によっては10時間も歩いていた」とひで子さんは振り返る。
袴田さんは身柄を約48年間拘束され、東京拘置所の独居房では死刑の恐怖にさらされながら過ごした。やがて「拘禁症状」が現れ、三畳間の独居房の中をぐるぐると歩き回るようになる。その習慣行動を、釈放後も続けていたのだ。
就寝の時は、体を真っすぐにして寝返りも打たない。明かりは消さず、ひで子さんが近くを通ると、びくっとして目を覚ました。いったんトイレに入ると、長時間出てこなかい。ひで子さんが理由を説明する。「独居房で腰かけられる所はトイレの便座しかなかった。だから考え事をする時などに、トイレに腰かける習慣が抜けなかった」
家の中のドアや窓が開いていると、気になってすぐに閉めた。「私がトイレの小窓を開けると、すぐに閉める。また開けても、閉めるの繰り返し。これも『後遺症』だと思う」
▽人前で「あくび」をするまでに1年
2014年8月28日深夜、袴田さんはトイレで倒れ、浜松労災病院に運ばれた。肺炎の症状があったが、詳しく検査した結果、胆石による炎症が見つかり、9月5日夜、胆のうを摘出。さらに狭心症の疑いがあるため、心臓の血管を広げるステントを血管の2カ所に入れる手術も受けた。
袴田さんは食事の時、「神」「儀式」などの言葉を交えた呪文のようなものを唱えていたが、姉との暮らしに慣れるに従って、言わなくなる。手術後は1人で外出するようになった。
最初は、近隣の公園や浜松駅周辺を散歩した。「応援してるよ」「体に気をつけて」。ニュースで袴田さんのことを知った浜松市民が声をかける。袴田さんが街歩きする姿は、いつしか地元でなじみの風景になっていく。
市内を流れる馬込川に沿って遊歩道がある。袴田さんがアマチュアボクサーの頃、ロードワークで走った道だ。ある日、この道を南下して遠州灘に面した浜辺まで行ってしまったことがあった。
姉のひで子さんが振り返る。「夜の9時になっても帰って来ない。暑い頃だから、もし野宿になっても大丈夫かなと思っていたら、10時ごろ帰宅した」。袴田さんは浜辺の石に足を取られて転び、けがをしていた。
「それからは、浜松駅前のアクトタワーを目標に歩くようにしてもらった」。高さ約212メートルの超高層ビルで、遠くからもよく見える。袴田さんはタワーを目印に駅まで来ると、迷わずに帰宅できた。
ひで子さんは、人前であくびもしない弟が緊張を解き、和らいだ表情になることを願っていた。ある日、袴田さんが姉の前で初めて、大きなあくびをした。「あらま、巌があくびをしたじゃない」。ひで子さんは驚き、喜んだ。同居から1年が過ぎていた。
▽散歩の途中、急に立ち止まり…
2017年7月13日、袴田さんは自宅近くの公園で石段から転落。顔や右腕、右脚に傷を負い、救急車で病院に運ばれた。この事故をきっかけに、支援者が交代で袴田さんを見守ることを開始。一人ずつ散歩に付き添うようになった。唯一の男性メンバー清水一人さんが、見守りを始めた頃を思い出す。「午前はいつ出かけるか分からず大変だった。午後は家から2キロほどの静岡文化芸術大まで歩くことが多かった」
袴田さんは散歩の途中、急に立ち止まり、動かなくなる。それが1時間以上になることも。「閉店した商店や空き地に興味があって、見ながら何かつぶやいていた」
取調官や刑務官を思い出すのか、男性には警戒心を見せる。清水さんの同行も嫌がっていたが、1年ほど前から態度が一変、会話もできるようになった。「缶ジュースを2本買って『これ飲んで』と手渡してくれることもある」
「見守り隊」の代表、猪野待子さんは、袴田さん宅をほぼ毎日訪れ、昼食を作って食卓を共にする。遠方に出かける時は3人で同宿。ひで子さんが外泊する時は、代わりに自宅に泊まり、袴田さんの面倒をみている。「袴田さん姉弟の人間的魅力が私を捉えて離さないので、お手伝いしている」
▽「ローマ教皇になった」という妄想
ただ、袴田さんには「別人格」になった妄想にとらわれることがあった。
2018年1月9日、袴田さんは猪野さんに「今日はローマへ出かけることになっている」と言った。自分がローマ教皇になったと思い込むことがあったのだ。
東京拘置所で死の恐怖におびえた苦しみの中、袴田さんは信仰に救いを求め、1984年のクリスマスイブに教誨室で洗礼を受けている。当時の日記には「あの瞬間は、私にとって、唯一最大の栄光の絶頂であった」と記している。
やりとりを聞いたひで子さんは「よし、分かった」。福岡市の病院に入院中の元裁判官、熊本典道氏の元に袴田さんを連れて行くことを即断。午後の新幹線に乗り込んだ。
病室の熊本氏は、脳梗塞の後遺症でベッドに寝たきりだった。ひで子さんが「熊本さん、連れてきたよ」と声をかけると、目を開き、袴田さんを見ながら「いわお…」と声を振り絞り、涙を流した。
静岡地裁の裁判官だった熊本氏は、無罪との心証を持ちながら死刑判決を書いたと告白。ひで子さんと以前、面会した時に「浜松に行き、謝りたい」と話していたが、病状悪化で実現していなかった。ベッド脇に立つ袴田さんは黙って熊本氏を見つめた。2人が会うのは、判決公判で対面して以来、約50年ぶりだった。
2019年11月25日には、来日したローマ教皇フランシスコが東京ドームで執り行ったミサに、袴田さんとひで子さんの2人が招待される。黒のスーツとちょうネクタイ、ソフト帽姿の袴田さんは、ステージに近い前方の席に座った。教皇がオープンカーに乗って登場すると、帽子を脱いで立ち上がり、その姿を静かに見つめた。
▽姉ひで子さんの涙「この日が来るのを待っていた」
今年3月10日、浜松市の袴田さんとひで子さん宅に、すしや鍋料理などのごちそうが並んだ。この日は袴田さんの87歳の誕生日。チェックのシャツに黒のちょうネクタイ姿の袴田さんは、ひで子さんや10人ほどの支援者と会食を楽しみ、革手袋や財布などのプレゼントを受け取ると、表情を和ませた。普段の袴田さんは口数が少ないが、この日はよく話した。
年齢について尋ねられると、「年のことはよく分からん。神が21だと決めちゃっているので、それ以上は年を取らん」。
姉から贈られた革手袋を手にして、「冬でも、夏でも手袋をはめているボクサーは手が小さくなる」と独特の論を語る。
「お姉さんはどんな存在ですか?」という質問に、「姉ということじゃあ、こき使うわけにもいかんでね」と答えると、周りの人たちから笑い声が起き、ひで子さんも満面の笑みを浮かべた。
「表情が豊かになったし、ちゃんと話をするようになってきた」。ひで子さんは、弟の様子に満足そうだ。以前は自分の世界に閉じこもっていた。「まだ、おかしなことを言うが、徐々に良くなっていると思う」
症状が緩和された背景には、姉が弟の言うことを全て受け入れ、思い通りにさせていることがある。「巌は長い間、自由がなかった。だから私は『ああしろ、こうしろ』とは絶対に言わない」
ひで子さんは2月8日、90歳になった。再審無罪を獲得する闘いは、これからも続く。体調管理のため、毎朝、ヨガとストレッチを組み合わせた独自の体操を続けながら、弟の健康も気遣う。
「巌は48年も刑務所(拘置所)にいた。その間の苦労は並大抵ではないと思っている。その苦労を挽回するように、せめて100歳までは生きてもらいたい」
何十年も拘置所通いを続け、弟の精神がむしばまれていく様を見てきただけに、今の姿が信じられない。「巌に『幸せ』なんて言葉があったのかと思った…」
誕生日から3日後の3月13日、東京高裁は、再審開始を認める決定を出した。ひで子さんは涙を拭った。「57年間、闘ってきて、この日が来るのを待っていた。とても、うれしい」。いよいよ再審が始まる。