食の安全を守る〝公務員獣医師〟が足りない 家畜伝染病のまん延防止で業務急増、「重要性知って」行政は人材確保策を模索

検査のため酪農場を訪れた公務員獣医師=2023年3月、島根県出雲市

 鳥インフルエンザなどの頻発を受け、国や自治体に所属する「公務員獣医師」の重要性が高まっている。家畜伝染病の予防やまん延防止、食肉検査などを担い、牛乳や卵、肉といった身近な食の安全を守る役割を果たしている。ただ近年は殺処分などの対応に追われ、現場は慢性的な人手不足にあえぐ。人材獲得に向け、国や自治体も動き始めた。(共同通信=滝田汐里)

牛の検体番号を確認し合いながら採血や採ふんを進める獣医師ら=2023年3月、島根県出雲市

 ▽防疫のために1日に数百頭の検査も
 3月下旬、島根県出雲市の酪農場。朝の光が差し込む牛舎で、青や緑の作業服姿の4人の獣医師が乳牛の検査に臨んでいた。酪農場が買い取った牛を受け入れる際には、伝染病予防のために1頭ずつ病気にかかっていないことを確認する必要がある。この日も協力しながら、1メートルを超える乳牛のしっぽを高く持ち上げて血管が走る裏側から採血し、牛の肛門に手を入れてふんを採取していた。採取した検体は取り違えないように、互いに何度も検体番号を呼びかけ合って確認。牛の頭を押さえるなど力仕事が続くと、額の汗をぬぐった。こういった検査は年間50件ほどあるという。搾乳頭数が1千頭以上の大規模農場では、1日に数百頭を検査することもあり、かなり骨が折れる仕事だ。

島根県職員で獣医師の松尾治彦さん=2023年3月、島根県出雲市

 県職員で獣医師の松尾治彦さん(37)は、忙しさを感じながらも、公務員獣医師の魅力を「農家の家畜を伝染病から守り、経営を支えながら、安全な畜産物の生産に貢献できることだ」と語る。ただ、「鶏が死んでいる。急いで検査してほしい」など、突発的な仕事も多い。農家から県の家畜保健衛生所へ「通報」が入ると、早朝でも数人で駆けつけ、現場での検査や周囲への連絡に走らなければならない。鳥インフルエンザなど伝染病の場合は素早く対応し、広がりを食い止めることが責務だ。一刻を争う仕事には人手が必要だが、松尾さんは「現場は若手が少なく、絶対的なマンパワー不足だ」と訴える。

食肉に適さない部位が残っていないかどうか、3メートルほどある牛の枝肉を検査する島根県職員獣医師、平均して週に2日、一日30頭ほど検査を行う=2020年8月、島根県大田市

 ▽相次ぐ家畜伝染病への対応、和牛遺伝資源の流通管理も
 家畜伝染病の発生増加に伴い、まん延防止に当たる公務員獣医師の業務はここ20年で急増した。2001年には国内で初めて牛海綿状脳症(BSE)を確認。撲滅したかに見えた豚熱(CSF)も再拡大している。さらに、毎年のように発生する鳥インフルエンザが多忙さに追い打ちをかけている。
 加えて、松尾さんが「今までで一番忙しかった」と振り返るのは、和牛の精液や受精卵といった和牛遺伝資源の過去の取引をたどれるようにした「家畜改良増殖法」の改正だ。契機は、2018年に起きた和牛の遺伝資源が中国に持ち出された事件。和牛は欧米やアジアでも人気が高いが、海外で和牛遺伝資源が不正に出回ると、ブランド力は低下する。政府は2020年、法改正して規制を強化し、流通管理を厳しくした。
 ただ法改正に伴って公務員獣医師の業務に新たな仕事が加わった。松尾さんは当時、県の担当部署にいたため、農家や関係機関の出席する研修会や会議に何度も出向き、必要となる作業の説明に追われた。現場の作業としては、精液が入ったストロー形の容器に牛の名前や採取日を書き込み、誰に販売したかを帳簿に記録して管理することなどが求められた。農家からは「急に言われても困る」「現場で全部はできない」といった声も上がったという。改正後は法律が守られているかどうかを確認し、時には行政指導を行う立場にある。

鳥インフルエンザが確認された大分県佐伯市の養鶏場で、殺処分作業に臨む関係者=2023年1月(大分県提供)

 ▽毎年約1千人が獣医師になるものの、公務員獣医師の数は横ばい
 農林水産省によると、獣医師が従事する分野は大きく4つに分けられる。①犬、猫などのペット診療を担う分野②産業動物を診療する分野③大学の教員になったり研究に従事したりする研究・教育の分野、そして4つ目の公務員獣医師が手がける分野は幅広く、家畜伝染病の予防やまん延防止、食肉検査などの公衆衛生、保健所での動物の愛護・管理にまで及ぶ。

 80を超える大学に医学部が設置され、毎年約1万人が医療の現場に送り出されている医師と比べ、獣医師免許を取得できる大学は全国に17校で、毎年の卒業生は計1千人程度と、獣医師は絶対的な供給量が少ない。
 また、農林水産省の統計では、2020年末時点の獣医師は国内で約4万人いるが、うち公務員獣医師は約9500人。2004年末から横ばいが続いており、増加する業務に対して人数が不足している。一方、犬や猫など小動物を診療する民間施設の獣医師は約1万6千人で、同じ時期で比べると約1・6倍に増えており、人気の差が開いている。

牛を検査する獣医師ら=2023年3月、島根県出雲市

 ▽人材確保へ、行政側による現場復帰促進や給与見直し
 こうした現状を受け、危機感を抱く国や自治体は対策に乗り出している。
 国は働き方の改善に向け、日本獣医師会を通じて家畜の遠隔診療を推進する。離島や獣医師が配置されている場所から離れた診療地への移動時間を短縮、夜間の呼び出しの見直しに繋げている。
 潜在する獣医師の活用も急務だ。統計では、獣医師免許を持っていても獣医療に従事していない人の割合が1割ほど存在する。農林水産省の担当者によると、出産や育児で職を離れた人や全く別の仕事に就いている人、リタイアした人などが当てはまるという。国は免許保有者の現場復帰を促すため、獣医師会が開催する研修会の費用を補助。研修で技術や知識を学び直し、現場を体験して感覚を取り戻す機会を提供してきた。

獣医師の仕事を知ってもらおうと、島根県がコンビニエンスストアなどで配布しているパンフレット

 給与の低さも課題だ。人事院によると、国家公務員の場合、2022年4月時点での獣医師の平均給与月額は、同じ6年制の大学に通う必要がある医師や歯科医師と比べ半分以下。自治体も同様という。食の安全を揺るがす家畜伝染病が頻発する中、多岐にわたる業務が増加する公務員獣医師の仕事に、給与水準が見合っているとは言いがたい状況だ。
 そこで福岡県は2017年、徳島県は2021年から、家畜保健衛生所などに勤務する獣医師の給料とボーナスを増やした。専門性がある県職員獣医師の待遇を改善し、慢性的に不足する人材の定着を促している。福岡は最大で月2万円、徳島は月約3万円の増額を見込む。
 さらに、過去10年で県職員獣医師が2割減った島根県は、初任給調整手当の増額に加え、2021年に県内の農場や酪農学園大(北海道江別市)とそれぞれ協定を結んだ。他県の学生を農場に受け入れ、乳牛の健康検査などを体験してもらい、移住のきっかけになることを期待する。2022年度からは獣医師免許を持つ既卒者も受け入れ対象に加え、奨学金返還の一部補助も始めた。
 幅広い層へ働きかけようと、小中高生向けには動物病院の見学や実際に牛を縫合する針に触れる体験の機会も作った。2021年度からは、県に獣医師確保に集中的に取り組む「確保担当」を設けた。担当者は「全ての世代に働きかけている。効果はこれからだ」と期待を込める。

公務員獣医師の重要性が広く社会に知られることを願う島根県の松尾治彦さん=2023年3月、島根県出雲市

 ▽取材を終えて
 ペットを飼っている筆者にとって獣医師と言えば、動物病院で白衣を着て診療する印象が強かった。だが酪農場で目にした獣医師は、作業服姿であちこちの現場へチームで足を運んでいた。島根県の松尾さんは公務員獣医師の仕事を「身近な食の安全に対して貢献すること」と表現する。
 取材を進める中で見えたのは、公務員獣医師の重要性が広く社会に知られているとは必ずしも言えない現状だ。また、なり手不足の現実を正面から受け止め、長期的な視野で確保対策を練る自治体の姿だった。私たちの食生活に直結し命をつなぐ公務員獣医師が、将来の進路の一つになるように子どもや中高生に知ってもらう教育体制も必要ではないだろうか。そして何より公務員獣医師を目指したいと思える労働環境と仕事に見合った適正な待遇が求められている。

牛肉売り場=2022年11月、東京都練馬区のスーパー「アキダイ」

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