門馬監督は「何を考えているか分からない」? 神奈川高校野球を盛り上げた東芝ルーキー斉藤・下山・山田の思い出話

東海大相模高出身の山田拓也、慶応高出身の下山悠介、横浜高出身の斉藤大輝(左から、写真は当時)

 東京ドームで14日に開幕した第94回都市対抗野球大会で、13年ぶりの頂点を目指しているのが、地元出身選手を集めて大幅にチームを若返らせた東芝(川崎市)だ。内野陣を固め、上位打線を形成するのは、横浜高出身の斉藤大輝(法大)、慶応高出身の下山悠介(慶大)、東海大相模高出身の山田拓也(青学大)というルーキー3人衆。かつて神奈川の高校野球を盛り上げた3人に当時の思い出を座談会形式で語ってもらった。(構成・和田 秀太郎)

 横浜、慶応、東海大相模。神奈川の高校野球を語る上で欠かせない強豪校をそれぞれの立場でけん引した3人。早いもので甲子園の100回記念大会だったあの夏から、5年がたった。

 和田 皆さんに当時のことを思い出してほしいので、当時の新聞紙面を持ってきました。

 山田 俺は(慶応に勝った)秋の紙面だけ見ていたいな。夏は見たくないな。

 下山 うわ懐かしいな~。エモいというか。

 斉藤 (横浜3連覇の紙面を見ながら)見てみ、これ。

 和田 当時の下山選手を特集した記事もあります。

 下山 若い!

 斉藤 なんかゴツくね?

 和田 皆さんはお互いのことをいつから認識していたのでしょうか。どんな選手だと思っていましたか。

 下山 かなり早い段階から意識していた。中学のシニアで対戦したこともあった。存在は中学からで、高校もみんな早い段階から出ていたから意識していた。(山田は)良い選手。下級生でもチームに欠かせない感が出ていて、勝利に貢献する選手。(斉藤は)欠かせない選手に早くからなっていた。2人には負けたくないとずっと思っていた。

 斉藤 (下山は)中学から対戦していた。高校時代は一発が怖くて、チャンスに強いという印象。(山田は)コイツ出すと面倒だなと。小松(勇輝)=JFE東日本=と山田の1番2番を出したくないなと思っていた。

 山田 (斉藤は)中学の時から知ってはいたけど対戦はなかった。2人とも早い段階から試合に出ていた。僕がたぶん一番遅い。慶応とか横浜で1年生から試合に出ていたのですごいなと思っていた。(リスペクトは)もちろんあった。3年生になってから、2人とも主将で3番で、うちの選手たちは下山、斉藤をどう抑えるかと考えてやっていた。この2人を抑えればなんとかなると思っていた。

 和田 中学の頃から知っていたんですね。それではお互いの学校をどう見ていましたか。

 斉藤 (慶応は)髪が長かった。自分たちは丸刈りだったので、うらやましさというか負けたくないなというのはあった。(横浜は)打倒相模で毎年やっていた。積極的に来るなと思っていた。

 下山 相模は超攻撃型というイメージがあった。とにかく攻めてきた。(山田は)その象徴。横浜はザ・名門。隙のない野球だった。どちらともインパクトはあったが、タイプは違う。

 山田 横浜は中学生から良い選手を集めている。万波(中正)=日本ハム=や増田(珠)さん=ソフトバンク=がいた。うちはそういうスター選手がいなかった。横高は個々の力があった。普通にやったら力負けするイメージ。慶応は頭も良いし、髪の毛もあるし、いいなぁと。それなのに強い。こっちは野球しかやっていないのに負けるし。

 和田 当時の横浜は男子校だったから共学に負けられないという気持ちはあったんでしょうか。

 斉藤 女性ファンはうちが1番多いので(笑)。男子校だけど女の子のファンも多い。試合になればこっちも共学だと思って戦っていた。

 和田 お互いの監督のことはどう見ていたんでしょうか?

 斉藤 慶応の森林(貴彦)監督は試合前に(その日のテーマの)四字熟語を言うイメージでしょ(笑)

 山田 俺もそう思った(笑)。(前横浜監督の)平田(徹)さんは選手にハグしてた。

 下山 めっちゃフレンドリーだよね。渡辺(元智)さんは怖そうなイメージがあるけど、平田監督はそのイメージを覆した。選手と距離が近かった。(前東海大相模監督の)門馬(敬治)さんは…?

 斉藤 門馬監督は何を考えているか分からない。「ここでエンドランしてくるの?」とか思った。

 和田 それは相模の選手も思っていましたか。

 山田 練習で内野ノックしていたら、二塁の10メートルくらい後ろで仁王立ちしている。普段は何考えているか分からないけど、授業はめっちゃ面白いんですよ。しゃべりがうまくて。社会の先生。野球部員は緊張するんですけど、一般生徒からは超人気です。僕も野球部じゃなかったら楽しめたかなと思う。

 和田 斉藤選手と下山選手は高校3年時に主将でした。山田選手も主力。チームを引っ張る上で気をつけていたことはありますか?

 下山 僕たちは部員数が多くて、一軍二軍をメジャーマイナーと言っていた。みんなが納得できるチームにしたいなと思っていた。マイナーの選手が思っていることを聞いて、選手だけのミーティングを結構設けた。全員が勝っても負けても納得できるチームを目指していた。

 斉藤 自分たちは60人の部員で少数精鋭だった。技術面に関してはみんな良いものを持っていた。みんなのモチベーションを上げるためにはどんな言葉をかければいいか。言葉選びは高校時代、すごく気にしていた。メンタル面を重要視していた。

 和田 高校生が言葉選びを気をつけるなんてすごいですね。

 斉藤 平田監督の言葉選びがすごくうまい。そういうのを1年から見ていたので。

 山田 僕は主将ではなかったが、小松と森下(翔太)=阪神=と一緒に2年生から出ていた。新チームになって、監督から3人でチームをまとめろと言われていた。全員が同じ方向に向かうために、僕なりに信頼し合える関係を作ろうと。伝えるにしても、伝える側の人間が信頼されている人間かどうかは普段の生活から見られている。常に見られている意識を持って生活していた。

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