鞆の浦は、スタジオジブリ作品『崖の上のポニョ』の舞台のモデルとなったことで知られています。
そのスタジオジブリの宮崎駿(みやざき はやお)監督がデザインを考えたという宿・食事処があるのを知っていますか?
それは「御舟宿 いろは(おんふなやど – 、以下 いろは)」。
しかも、いろはの建物は江戸時代末期に、あの坂本龍馬(さかもと りょうま)が訪れたという歴史的に重要な建物なのです。
昔ながらの町家の雰囲気を味わいながら宿泊でき、鞆を代表する鯛などの料理を楽しめる施設・御舟宿いろはについて、魅力を解き明かしましょう。
坂本龍馬が「いろは丸事件」の談判をした築220年の歴史ある町家
いろはは、鞆にある古い町家を改装した食事処・宿です。
建物は築およそ220年。
1800年前後の江戸時代後半に建てられました。
実はいろはの建物は江戸時代末期に、坂本龍馬が訪れた建物なのです。
1867年5月(慶応3年4月)に、龍馬ら海援隊(かいえんたい)が乗った船「いろは丸」と、紀州藩(和歌山藩)が乗った船「明光丸」が、笠岡市・笠岡諸島の六島周辺で激突。
その後、いろは丸が沈没してしまいました(いろは丸事件)。
近くにある港町だった鞆に龍馬らと紀州藩が上陸し、龍馬らは商家だった桝屋清右衛門宅に、紀州藩は圓福寺(えんぷくじ)に滞在します。
そして、龍馬らと紀州藩のあいだで賠償の談判(交渉)がおこなわれました。
その談判がおこなわれた場所のひとつが、現在のいろはの建物なのです。
当時のいろはの建物は「魚屋 萬蔵 (うおや まんぞう)」という陶磁器を扱う商人の店舗・自宅でした。
現在もいろはの建物は「旧魚屋萬蔵宅」と呼ばれています。
もともとは萬蔵という名前のかたが魚屋をしていたようですが、その後は屋号として名前を残し、業態は時代によっていろいろ変わっていたそう。
魚屋萬蔵宅は明治以降、雑貨店などいろいろな店として利用され、最後は呉服屋となったあとに2年ほど空き家となってしまいました。
その後、坂本龍馬ゆかりの歴史ある建物を残すため、鞆で空き家再生を手掛けていたNPO法人 鞆まちづくり工房が中心になって、魚屋萬蔵宅を残し活用する活動を始めたのです。
そして鞆の浦を気に入った映画監督の宮崎駿氏が、町家をデザインしました。
魚屋萬蔵宅は宮崎監督のデザイン画を元にリノベーションされ、宿・食事処として生まれ変わり、2008年(平成20年)に御舟宿いろはとしてオープンしました。
2階は「町家体験」のできる宿
宿の客室は、いろはの建物の2階です。
「みんなで部屋」「かけもちもの部屋」の2部屋があります。
各部屋の宿泊料金は、時季によって変動します。
料金などの詳細や予約は、いろはの公式ホームページを見てください。
いろはの宿は、「町家体験」をテーマにしています。
昔ながらの町家の部屋で宿泊することで、現代の日常ではなかなか味わえない懐かしい雰囲気を楽しめるのが、いろはの醍醐味なのです。
また、いろはの宿泊は夕食・朝食付き。
夕食は地元の旬の食材を中心に使った、和洋折衷の創作料理が楽しめます。
鞆の浦の海の幸や、地域に受け継がれる豊かな食文化を楽しめるコース料理です。
内容は、日によって変わります。
食べられない食材がある場合は、予約時に伝えてください。
「みんなで部屋」は元お座敷だった部屋を活用
「みんなで部屋」は食事処の2階にある客室です。
8畳と6畳の和室二間続きの部屋と向かいの6畳の部屋からなり、5名まで宿泊できます。
かつては、お座敷としてお客をもてなす部屋だったそう。
壁は、中国山地から掘り出された赤土が使われています。
歴史ある雰囲気が濃厚です。
「かけもちもの部屋」は蔵を改装して客室に
「かけもちもの部屋」は、蔵だった建物の2階です。
1階は風呂になっています。
12畳の和室で、宿泊人数は3名まで。
「みんなで部屋」からは2階から廊下がつながっているので、食事処の階段から行けます。
元は蔵だったので、お座敷だった「みんなで部屋」とは違った、やや暗めで重厚感のある雰囲気です。
迫力のある梁は、蔵ならでは。
昔の道具などもインテリアとして置かれており、歴史ある雰囲気を演出しています。
風呂は広々としている
風呂は共同です。
「かけもちもの部屋」がある、蔵だった建物の1階が風呂となります。
風呂は、2組限定の宿とは思えないとても広い空間です。
ゆっくりとくつろげる、快適そうな風呂ではないでしょうか。
1階は地元ならではの料理が楽しめる食事処
いろはの1階は、食事処です。
店内は昔の町家の建物を生かしており、歴史を感じさせます。
窓から差し込む光に照らされると、昔ながらの町家の雰囲気がより美しく感じられませんか。
店内では、鞆滞在中の宮崎監督のいろはのデザイン案を展示しています。
食事と合わせて、ぜひ見学してみてください。
龍馬と紀州藩が談判をした可能性が高い部屋
気になるのが、坂本龍馬らと紀州藩は、いろは(魚屋萬蔵宅)のどこで談判をおこなったかということではないでしょうか。
実は、魚屋萬蔵宅で談判がおこなわれたことは記録されていますが、どの部屋でおこなわれたかまでは記録されていないのです。
魚屋萬蔵宅の再生に関わったかたのあいだでは、2階でおこなわれたのではないかといわれていました。
再生にあたり、歴史の専門家に調査を依頼したところ、2階が日常の場所として使用され始めたのは明治以降の可能性が高いことが判明。
家の形状・間取りなどを考えると、1階で談判がおこなわれた可能性が高いと推測されました。
談判がおこなわれた可能性が高い部屋は、なんと4人がけの座敷席として飲食に利用できるのです。
坂本龍馬が座ったかもしれない部屋に自分も座って食事ができると考えると、ワクワクしてしまいます。
いろはのランチメニュー
2023年(令和5年)6月時点の情報。価格は消費税別
いろはのランチのラインナップは、「いろは御膳」の1品が基本です。
すべての食事を店内で調理しており、鞆の浦・福山などにゆかりのある料理が味わえます。
仕入状況によっては、単品メニューとして「鯛のカブト煮」や酒がラインナップすることもあります。
「いろは御膳」は鯛漬けを主菜とした約10品が楽しめる
「いろは御膳」(1,980円)は、鯛漬けをメインに全10品ほどの料理が楽しめる膳です。
内容は鯛漬けのほか、ごはん、口取り、小鉢、香物、茶漬け用のダシ汁。
ダシ汁は、火で温められていました。
ごはんはお櫃(ひつ)で提供され、自分で茶碗によそいます。
おおむね3杯分ほどの量です。
通常のごはんをおかずとともに楽しむほか、漬け丼、茶漬けなどにして楽しめます。
一度の食事でいろいろと楽しめるのは、うれしいですね。
そしてなんといっても、一番の目玉は鯛漬け!
鯛漬けは、瀬戸内海の鯛の切り身を酒・昆布などに約10日間も漬け込んだものです。
鯛漬けは、お客からも大変好評のいろはの自信作だそう。
ごはんの1杯目は、鯛漬けをおかずにして楽しみます。
鯛漬けは、コリコリとし弾力がある力強い歯ごたえです。
とても身が締まっていておいしい。
身をかみしめると、鯛の身のうまみ・風味が染み出てきます。
同時に、酒の特有の風味や甘みもフワッと口内に広がってきました。
そこにワサビ醤油を少しつけると、いっそうおいしく飯が進みます。
さらに、いっしょに提供されている鯛味噌をごはんのお供に。
鯛味噌の甘じょっぱく濃い味わいで、どんどんと飯が進んでいきます。
1杯目のごはんを食べ終えたところで、お櫃から2杯目を茶碗によそいました。
2杯目は鯛漬け、いっしょに提供されているゴマ・海苔・ウズラの卵をごはんに載せ、漬け丼にして楽しみます。
鯛漬けと白米の味わいに、ウズラの卵や海苔、ネギなどが加わって、より重厚な味わいに。
そして2杯目の漬け丼のあと、3杯目をよそい、これでごはんがなくなりました。
3杯目は、鯛茶漬けで楽しみます。
ごはんの上に残った鯛漬けをすべて載せ、ダシ汁を投入。
ダシ汁は火で温められているので、ホカホカです。
茶漬け用のダシ汁はサッパリとした薄口の甘辛さながら奥深い味わいで、ダシだけでもおいしいです。
ダシの風味と鯛漬けの風味、鯛自体のうまみと食感が一体となり、新たなおいしさを楽しめました。
一度でさまざまな味わいを満喫できるいろは御膳は、とてもお得感のあるメニューだと思います。
坂本龍馬も訪れた歴史ある町家が、宮崎駿監督のデザインで現代に食事処・宿として生まれ変わった、御舟宿いろは。
スタッフの松居大祐(まつい だいすけ)さんへインタビューをしました。
インタビューを読む
御舟宿いろはの松居 大祐さんへインタビュー
坂本龍馬も訪れた歴史ある町家が、宮崎駿監督のデザインで現代に食事処・宿として生まれ変わった、御舟宿いろは。
スタッフの松居大祐 (まつい だいすけ)さんへインタビュー。
開業の経緯や再生されるまでのいきさつ、今後の抱負などについての話を聞きました。
インタビューは2020年12月の初回取材時に行った内容を掲載しています。
歴史的に重要な町家が空屋になって売りに出され……
──いろはのある建物は坂本龍馬も訪れたそうだが、なぜこのような歴史的建造物で店を始めることに?
松居 (敬称略)──
いろはを開業したのは、私の母・松居秀子が携わっていた2003年(平成15年)設立のNPO法人 鞆まちづくり工房です。
鞆まちづくり工房は、鞆町内にある空屋の再生事業をおこなう法人として起ち上げられました。
鞆まちづくり工房の起ち上げの少しあとに、いきなり現在のいろはの建物に「売物件」の張り紙が出て、売りに出されたそうです。
母たちは驚き、「このままでは坂本龍馬にゆかりがある、歴史的に重要な建物がなくなるかもしれない」と危惧しました。
市役所に相談してみたそうですが、突然のことであるため、すぐに買い取ることは予算面で難しかったようです。
そこで、鞆まちづくり工房が売りに出された建物を買い取ることになりました。
支援を受けて歴史ある町家を再生、鞆の観光資源として活用
──買い取りの資金はどうした?
松居──
資金面が一番大変だったと聞いています。
空屋が増えている地区といえども、それなりの大きな金額は必要ですから。
坂本龍馬ゆかりの史跡ですので、龍馬の故郷・高知県で龍馬関連の活動されているかたを訪問したり、全国各地の龍馬の史跡に関わるかたが集まる「龍馬会」に協力を求めたりしたそうです。
いろいろと協力を得て、情報も発信していましたが、なかなか必要な金額の達成は難しかったと聞いています。
そんなとき、アメリカ・ニューヨークに本部がある世界の文化財保存の活動をしている団体「ワールド・モニュメント・ファンド」と、企業の「アメリカン・エキスプレス」から連絡が来たんです。
そして、歴史文化遺産を後世に残すため協力をしたいとのことで、アメリカン・エキスプレス社が支援してくれることになりました。
さらには、スタジオジブリの映画監督・宮崎 駿(みやざき はやお)さんからも協力したいとの話をいただき、支援してもらえました。
──なぜ宮崎駿監督が協力を?
松居──
スタジオジブリは、毎年社員旅行をするそうです。
それで、あるかたが鞆の浦に社員旅行に来てほしいとお願いしました。
すると、2004年(平成16年)にジブリが鞆の浦へ社員旅行をすることになったんです。
そのときに社員旅行への協力を要請されたのが、鞆まちづくり工房でした。
社員旅行で宮崎監督をはじめ、社員のみなさんが鞆の浦を気に入ってくれ、のちの支援につながったそうです。
──買い取ったあとは、どのようにして現在の食事処・宿となった?
松居──
鞆まちづくり工房が魚屋萬蔵宅を買い取ったあと、鞆の浦を気に入った宮崎監督は、2005年(平成17年)に鞆に滞在して静養しました。
そのとき、ちょうど萬蔵宅を修復するところだったんです。
ですから宮崎監督もこの建物が気になって、見学に来たそう。
しかもいろいろとデザインを考え、提案してくれたんですよ。
こちらからいっさいお願いすることはなく、自ら積極的に協力されたようです。
商店という形で残されている萬蔵宅でしたが、昔の天井や梁・柱などが残されていました。
だから宮崎監督は、昔の町家の形にもどしていくのが一番いいとアドバイスしたそうです。
そして、宮崎監督のデザイン提案やアドバイスを取り入れ、町家を修復しました。
ちなみに宮崎監督も「家は直角で構成されているイメージがあったが、実際は曲線もたくさんあるんだなぁ」と、新たな発見があったようですよ。
それと史跡を買い取った以上、これを活用していく必要があります。
しかし資料館やミュージアムのような形だと、収入面で施設の維持が難しくなる可能性が予想できました。
なので「古い町家に宿泊できる」ことを売りにした宿、そして鞆にゆかりのある料理を楽しめる食事処として営業していくことになったそうです。
──いろはが開業したのはいつ?
松居──
2008年(平成20年)5月にオープンしました。
昔ながらの町家にもどす作業だったため意外と時間がかかり、工事には約3年半かかりました。
ちなみに「御舟宿いろは」という店名は、宮崎監督の命名なんです!
由来は聞いていないそうですが、おそらく坂本龍馬のいろは丸事件の談判がおこなわれた場所なので、いろは丸に由来しているのでしょう。
映画「崖の上のポニョ」で鞆の浦が注目される
──宮崎監督の作品『崖の上のポニョ』は、鞆の浦滞在中に考えられたと聞いたことがある。
松居──
ちょうど御舟宿いろはの物件買取から再生作業のあいだの一時期、宮崎監督は鞆の浦に滞在し、その後もたびたび訪れていました。
そして、いろはの開業と『ポニョ』の映画公開は同じ2008年です。
ご縁を感じますよね。
実は2009年(平成21年)の『ポニョ』のDVD発売時のチラシに、宮崎監督が「鞆の浦はポニョのふるさと」というメッセージを出しているんですよ。
またジブリの鈴木敏夫(すずき としお)代表も「ポニョを頼んだぞ」という内容のメッセージをチラシに書きました。
これらの影響で、鞆の浦を訪れるかたが一気に増えたそうです。
その後、鞆の浦を舞台としてロケがおこなわれたTBSテレビ「日曜劇場『流星ワゴン』」でも、観光客が増えたと思います。
また当店など坂本龍馬関連のスポットは、坂本龍馬のNHK・大河ドラマの影響で注目されました。
ちなみに隣町・尾道出身の映画監督・大林宣彦(おおばやし のぶひこ)さんも、古くからたびたび鞆の浦を訪れていたんです。
生前最後の作品も鞆の浦でロケをおこない、当店を休憩所として使われました。
──昔に比べ、鞆の浦観光は大きく変わったと。
松居──
そうですね。映画やドラマの大きな影響があったと思います。
かつての鞆の浦は、ご年配向けの観光地でした。
仙酔島や弁天島などが見える海辺のホテルで一泊し、仙酔島に渡って帰るといったパターンが多かったと思います。
ポニョの公開を皮切りに、若いかたをはじめ、幅広い層が鞆の浦を訪れるようになりました。
しかも、街を散策するようになったのです。
以前は、あまり街中を歩いて回ることは少なかったように思います。
メディア業界から転身し、いろはの運営や鞆のまちづくりに携わるように
──松居さんが、いろはに携わるようになったのは?
松居──
私は鞆町出身なのですが、大学卒業後は東京でテレビ番組の制作会社で編集の仕事をしていました。
その後、新たな人生の道を見いだすきっかけになればとの思いで、世界一周の旅に出たんです。
旅を終えて、故郷の福山に戻り地元でカメラマン・画像編集の仕事をしていました。
その後、2016年(平成28年)ごろに母から「いろは」を手伝ってほしいという要請があり、いろはで仕事をするようになりました。
現在はいろはだけでなく、「そわか楼」「茶屋蔵」「つくろい空間」など関連店舗に携わったり、鞆地区のまちづくりにかかったりいろいろな活動もしています。
平日の鞆の浦にもにぎわいを
──今後の展望ややってみたいことがあれば教えてほしい。
松居──
鞆の浦は昔に比べて観光客も増え、活気が出たと思います。
しかし課題もありまして、休日と平日の観光客数の差が大きいんです。
ある程度は休日と平日の差があるものですが、あまりに差が大きすぎると店の営業が厳しくなります。
当店だけでなく鞆全体でまちづくりを考え、鞆を活性化させて平日にもにぎわいを生み出したいですね。
坂本龍馬の歴史と宮崎駿の世界観が融合した町家・御舟宿いろは
坂本龍馬と紀州藩が談判をおこなった歴史がある町家。
それに宮崎駿監督のユニークな視点でデザインされ、歴史と宮崎ワールドを体感できる、独自の建物となりました。
御舟宿いろは、龍馬ファン・ジブリファンにももちろんおすすめですが、それ以外のかたでも町家の雰囲気と地元の味が楽しめる店としておすすめ。
鞆観光の際に、ぜひ訪れてほしいスポットのひとつです。