【追悼:ジェーン・バーキン】エルメスのバッグだけじゃない!唯一無二のカッコ良さ  合掌 7月16日はジェーン・バーキンの命日です(2023年没・享年76)

ジェーン・バーキンから感じる4つのイメージとは?

2023年7月16日、ジェーン・バーキンが76歳で亡くなった。大ファンの私は非常に落ち込んだのだが、日本の大手マスコミの伝え方が「高級バッグの由来云々」でだんだん不愉快になってきた。まあ、ジェーン・バーキンのイメージについては人それぞれあると思うが、大きくは4つのパターンに分かれるだろう。

①エルメスのバッグ「バーキン」のモデル
―― おそらく一般的な認識はこれ。今回まじまじと思い知らされた。実際、近年のコンサート会場でエルメス顧客の中年女性たちのバッグ自慢の場に遭遇したことがあった。 ②カゴバッグを持ち、映画「欲望」にも出演するスウィンギング・ロンドンなモデル
―― 私はこれだ。

③小林麻美が最も憧れていたカリスマ女性
―― 以前、Re:minderに『80年代のトップアイコン小林麻美、ジェーン・バーキンに寄せた強い意志』というコラムでこの部分については触れている。

④セルジュ・ゲンスブールを通じての永遠のフレンチロリータ

ざっとこんな感じに分類できるかと思うが、今回は、私が知る限りのことを書いてジェーンを追悼したい。

ロンドン チェルシーの上流階級出身、母親の教えを人生訓に

ジェーン・バーキンはフランス女性代表みたいに思われているが、れっきとしたイギリス人。しかもロンドン南西部、チェルシーの上流階級出身だ。軍人の父と舞台女優の母との間に生まれ、思春期になると至るところで「ジェーン、君は全く母親に似てないね」とからかわれ、さらには寄宿学校時代に胸がないのに尻が大きいと、体型のことで壮絶な集団いじめにあっていた。

自慢の美しい母親は泣きじゃくる彼女にこう言った。この母親の教えが、その後の人生訓となっていく。

 一番の美しさは笑顔よ。  いつも笑っていなさい。  そうすれば世界も必ず微笑み返してくれる。  泣いたら貴女はひとりぼっちよ。

憧れの母親のように舞台に立ち、いつか皆に賞賛されたい一心で彼女はモデル、ならびに映画の端役として10代から活動を始める。

19歳の若さでジョン・バリーと結婚

そんな中、19歳の若さで家族の反対を押し切って、映画音楽家で13歳年上のジョン・バリーと結婚。これが彼女の最初で最後の正式な結婚になる(1965年)。

家族が危惧したように、女癖の悪いジョンとの結婚生活はわずか3年。長女ケイトをもうけたが破綻。当時のジェーンはとにかくコンプレックスの塊、醜いアヒルの子のような心境だったようだ。

夜寝る時もフルメイクで枕の下にこっそりマスカラやアイラインを隠し、直ぐに化粧直しをしてジョンに「ダーリン、今日の私は綺麗?」と必ず確認を取っていたらしい。90年代のいわゆるコギャルが、面倒臭いから化粧を落とさず寝るのとは全く違ういじましさ。

ジョンは「うるさい! しつこい!」と怒鳴り、愛人とアメリカに行き、幼い娘とジェーンのところには二度と戻らなかった。そして、ケイトを連れて実家に戻ったジェーンだったが、映画『欲望』に出演しヌードになったことで、さらに好奇の目に晒される羽目になる。

「あのジョン・バリーの元妻がヌード!」

そんな騒ぎに疲れた彼女は、次の映画のオファーを “フランスロケだから” と言う理由でフランス語が全く分からないのに承諾。とにかく、ロンドンから離れたかったのと “女優の夢” を諦めたくなかったのだ。そして、この映画『スローガン』で音楽家セルジュ・ゲンスブールと出会うことになる。

ジェーン22歳、セルジュ40歳、“美女と野獣カップル” の誕生

初対面から意地悪で天邪鬼なセルジュにジェーンは怖気付くが、そんな最悪な空気を変えるため監督が2人を食事に招き、その後ナイトクラブに行き形勢逆転。踊りが下手なセルジュに対し流石スウィンギング・ロンドン代表としてリードするジェーン。彼女は「実はシャイで繊細な天才肌」な彼のことを好きになり、2人はこの夜から付き合うようになる。ジェーン22歳、セルジュ40歳、お騒がせな “美女と野獣カップル” の誕生である。

胸が大きな女性が苦手なセルジュはジェーンのコンプレックスを解消。彼女の男顔や長い四肢を褒め、子供のような胸や前歯のすきっ歯すら讃えてフレンチロリータに仕上げていく。ジェーンは、キーをかなり高くしたウィスパーボイスのセルジュ作品で歌手デビューも果たし、注目のカップルとしてメディアを常に騒がせた。

ランニング一枚にニーソックス。ミニワンピースに革のブーツ。どんな格好の時も彼女が必ず持っていた籐のカゴバッグはロンドンのチェルシー地区のポルトガル人の店で買ったお気に入り物である。カンヌ映画祭でもロングドレスにハイヒールとカゴバッグで登場。―― このような組み合わせはジェーンしか出来ない。

また、まるで少女がピクニックに行くようなカゴバッグを持ち、1971年に映画のプロモーションで来日した2人は雑誌『アンアン』の表紙を飾る。この時ジェーンはシャルロットを妊娠中だった。

セルジュを元祖チョイ悪オヤジルックに仕立て上げる

幸いジェーンの家族もセルジュには好意的でよく2人してロンドンに行きチェルシー地区のフリーマーケットで買い物しカゴバッグを買い足していた。セルジュに髭を伸ばさせ、髪を無造作にし、ジーンズやダンガリーシャツを薦める。そして素足にレペットの靴を履かせたのもジェーンだ。元祖 “チョイ悪オヤジ” ルックの誕生だ。

一方でジェーンはどんどんメイクが薄くなりメンズやオーバーサイズの服を着るようになった。

―― 醜いアヒルの子は、もういない。 自分らしくていい… という自信は “新たな魅力” になっていく。

そんな中、彼女は仕事で知り合った無精髭の映画監督、ジャック・ドワイヨンに一目惚れしてしまう。そして葛藤の末セルジュと別れジャックと付き合い、82年にルーを出産する。どうも彼女は無精髭フェチだと思わざるえない。

エルメスの会長、ジャン・ルイ・デュマとの出合い

1983年、いつものようにエールフランスのパリ発ロンドン行きに搭乗したジェーンは、離陸時にカゴバッグの荷物を散乱させてしまい、乗務員がファーストクラスに席を変えてくれた。

隣に座ったビジネスマン風の紳士は大量のレシートやメモで膨らみ切ったエルメスの手帳がカゴにあるのを見て話しかけた。そして、ジェーンはカゴに荷物を戻しながら、“子育て中の自分に気に入るバッグがない” と紳士に語り出した。

「エルメスの手帳をお持ちならケリーバッグはどうですか?」

―― と問う紳士に、「あれじゃ哺乳瓶が入らないわ」

―― ジェーン曰く、理想のバッグは、「頑丈で、自立して(バッグ自体が立つ)、開口部が大きくバンバン物が入り、すぐに中身にアクセス出来て、肩掛けも手持ちも出来るもの」

―― これを紳士は機内のエチケット袋に細かくメモして、「貴女の理想のバッグを作るからプレゼントさせてください」と。そう、彼の名前はジャン・ルイ・デュマ。エルメスの会長である。

その約束は1年後の1984年に果たされる。これが “バーキン” の誕生である。エルメスで一番高価なバッグの “バーキン”。しかし、発売当時は今程高価でなく人気もなかった。元がマザーバッグだからあの大きさ、重さと値段は人を選ぶのは当然だと思う。“バーキン” の仕様は以下の通り。

・子育て中のジェーンに配慮し全て内縫い(縫い目が中側)。
・自立するよう底には底鋲を打ち安定感を出しバッグの角はパイピング仕上げ。
・子供に当たったり物にぶつけても痛くなく、へたらない仕様。

何と、発売当初の価格は2,000ドルだった。それが今や “抱える資産” と呼ばれるほど、入手困難で何年待っても買えないバッグになった。

三女のルー・ドワイヨンは「高級バッグの娘」とからかわれ揶揄されたとインタビューで答えている。彼女のために… と “ファーストバーキン” には哺乳瓶入れがあったのに何て皮肉なことだ。

後年、ジェーン自身も「バーキンって歌手? 知らないわ。エルメスの “バーキン” なら知ってるけれど」と言われた時に、「そうよ! その “バッグ” が歌うのよ! 良かったらコンサートに来て!」 と笑顔で言い返した話もある。元いじめられっ子の、見事な処世術である。

フレンチロリータからフレンチシック代表になったジェーンの来日公演

80年代、雑誌の対談で小林麻美がジェーンにパリまで会いに行ったり、ジェーン自身が精力的に映画に出演したり、すっかりフレンチロリータからフレンチシック代表になった頃、遂に歌手としてコンサートのために来日する。1989年2月19日、今は無き五反田「簡易保険ホール」で私はそのライブを観た。

「ディ・ドゥ・ダー(Di Doo Dah)」を歌いながら客席に挟まれた階段からジェーンが登場した。白いシャツでファンに会釈しながら満面の笑みでゆっくりステージに上がる。

代表曲ばかりの選曲の中、驚いたのは最前列のファンが花束を差し出した時にジェーンはしゃがんで受け取り握手をする。これをきっかけに何人ものファンが花束やプレゼントや手紙を渡すために前に殺到した。ジェーンは1人ずつ丁寧に握手し何度も会場中を見渡しおじきをした。

沢山のシールが貼られ落書きがあった “元祖バーキン” は唯一無二のカッコ良さ

彼女の魅力は、ある種の外し… “ヌケ感” だろう。オートクチュールのドレスを裏返しに着たり、サンローランのコートにカゴバッグ。髪の毛もわざと寝癖のように見せたり、穴の開いたTシャツも気にせず着用。バーキンバッグのリクエストから思うに、とりあえず何でもバッグに詰め込む “かなり大雑把な人” …だったのではないか。

一歩間違えたら “がさつ” とか “だらしない” になることがお洒落に見えるのは、容姿はもちろん、基本のベーシックなアイテムが意外にも英国製老舗ブランドだったり、アクセサリーがハイブランドで、かつわざとキメ過ぎないようにあえて “ヌケ” を作っているから。

彼女の “元祖バーキン” には沢山のシールが貼られ、落書きがあったり、唯一無二のカッコ良さだった。それを東日本大震災の時に惜しげもなくチャリティとして放出したことはジェーンだからこそできた行為。震災直後のあの余震が続き不安な日々。多くのライブやコンサートが中止になった時、白血病の闘病中にもかかわらず、急遽自費で来日し渋谷PARCOの店頭でチャリティーライブを決行。私はその場にいた。

この日、ジーンズにスニーカーでアカペラで歌った「ラ・ジャヴァネーズ」。私達の目を見ながら歌うさまは高級バッグの人ではなく、とにかく “いてもたっても居られないから私ができることなら何でもして日本を支援しなきゃ” という強い想いと慈愛に満ちた愛の人。この時の支援コンサートや募金活動などの功績で2018年に旭日小綬章を受章し、フランスの勲章を貰うより光栄だと喜んだ。

醜いアヒルの子はコンプレックスを逆手に取り、彼女の存在自身が憧れられるブランドになり、彼女の人生自体が色褪せることのない “作品” だと思う。

カタリベ: ロニー田中

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