T-BOLAN 究極のシングルベスト発売!その歴史こそ 90年代音楽シーンの大きな1ページ  待望のリリース! ベストアルバム「T-BOLAN COMPLETE SINGLES~SATISFY~」

ビーイングからビーゾーンへ

2023年4月に社名をB ZONE(ビーゾーン)へと変更し、激動する音楽、音楽業界で新たなフェイズに突入したビーイング。90年代の音楽シーンを牽引した栄華は音楽ファンなら誰もが知るところだ。近年では同社初の演歌・歌謡アーティストとして注目を集める新浜レオンや、8月23日に『名探偵コナン』新ED主題歌「…and Rescue Me」をリリースしたばかりの若干15歳、新しい世代の歌姫Rainy。などの活躍が目覚ましい。もちろん往年を彩ったアーティストたちの活躍にも目が離せない。

シーンの頂を長年疾走し続けるB’zは勿論のこと、ライヴツアーをはじめ精力的に活動する大黒摩季、新ボーカルを迎え再始動したWANDS、デビュー30周年を迎えたDEEN、そして今回のコラムの主役であるT-BOLANなど、枚挙にいとまがない。

流行が繰り返されるのは我々の知るところだが、ビーイングが日本の音楽シーンを席巻してから30年余り、新旧所属アーティストたちの色褪せない力強さと、数々のヒットを生み出した音楽の価値を、改めて実感する次第だ。

80年代ビーイングの存在感

そんなビーイングの歴史の源流のひとつに筆者が追いかけてきた80sのジャパニーズメタルシーンに辿りつく。とりわけ81年にデビューしたラウドネスは、初期ビーイングに所属し成功を収め、その社名自体を業界内外に広めた役割も大きい。

さらに、浜田麻里などの女性メタルシンガーやブリザードなどのジャパメタバンドの音源制作に次々と着手。時には所属アーティストとしてマネジメントもおこなった。80年代半ばにかけて、結果的にビーイングがジャパメタムーブメントの作り手として、その存在感を大いに発揮したのは間違いないだろう。

「BAD オーデション」で見出された逸材、T-BOLAN

ジャパメタブームも、80年代後半には失速し始め、ジャパメタからヴィジュアルロック系へと転化していくバンドも増えていった。

ジャパメタの本流を担ったビーイングにも様々な変化が起こった。1985年にデビューしたTUBEが大ヒット。そして、1988年には、その後国民的アーティストとして数々の記録を樹立し、2007年に「ハリウッド・ロック・ウォーク」の殿堂入りを果たしワールドワイドなロックの歴史にその名を刻むB’zが登場する。

この時期には新たな才能の発掘にも積極的に着手し始め「ビーイング、アーティスト、デベロップメント」の頭文字を取った「BADオーディション」を開催。大黒摩季やWANDSの柴崎浩ら、のちにメジャーシーンで活躍する才能が見出されていった。

そして、1987年に行われた第2回の同オーディションでグランプリを受賞したのが、森友嵐士(Vo)と青木和義(Ds)が在籍したT-BOLANの前身バンド、プリズナーだった。実はこのオーディションを受けた理由は、ラウドネスが所属したビーイングのオーディションだから(青木たっての願いで)受けたのだという。

彼らは翌年「BOLAN」とバンド名を変えて、ビーイングからインディーズデビューしたが、いわゆる僕らが一般的にイメージするビーイング系とは異なり、相当数のライヴをこなすツアーに明け暮れたというのだから興味深い。メジャーデビュー後もリアルな生粋のライヴバンドとして胎動する逞しさは、この時期に培われたのだろう。

アースシェイカーのMarcyも関わったデビュー曲!

インディーズでの紆余曲折を経てバンドは一度解散したが、90年に森友と青木に加え、五味孝氏(G)、上野博文(B)の4人にラインナップが固まり、90年にはT-BOLANとして本格始動。記念すべきメジャーデビュー曲となったのが91年7月リリースの「悲しみが痛いよ」だ。

曲作りはビーイング流儀で、T-BOLAN自身ではなく外部制作陣によって行われた。作詞・作曲を務めた川島だりあは、ソロアーティスト、作家としての顔に加え、その後ユニークなラウドロックバンド、FEEL SO BADでも活動した。

そして、注目したいのがサウンドプロデュースと編曲を担当した「西田魔阿思惟」だろう。変わった作家名に一瞬誰?となるが、カタカナで「ニシダマアシイ」と読み替えると、ジャパメタファンなら思わず、あっ!となるはず。そう、アースシェイカーのシンガーであるMarcyこと、西田昌史なのだ。

くしくも川島がT-BOLANのデビュー2カ月前にリリースしたビーイング第1弾「Shiny Day」を、西田が作・編曲しており、この時期の西田とビーイングとの関係性が伺える。

「悲しみが痛いよ」は、シンプルなリズムパターンによるビートと、パワーコードを刻むディストーションの効いたギターを主軸に構成され、心がホッと落ち着き安らぐ、ハートフルなメロディとムードに満ちている。森友の歌唱も、のちに披露するボーカルスタイルに比べ、比較的落ち着いたトーンと唱法で、丁寧にメロディを紡いでいるのがわかる。

どこかで聴いたこの感触と曲調。作詞・作曲は川島だし、勿論クレジットを知っているからかもしれないけど、少なくとも僕のようなジャパメタを聴いてきた耳には、それが少なからずアースシェイカーを想起させるテイストであるのは明白だ。

森友嵐士が生んだ永遠の名曲「離したくはない」

T-BOLANの船出として、一定の先鞭をつけたデビュー曲「悲しみが痛いよ」から5カ月後、2枚目のシングルとして世に送り出されたのは、森友嵐士が初めて作詞・作曲 を務めた「離したくはない」だった。

この曲は当初、森友がメジャーデビューのチャンスをつかむため、プロデューサーの長戸大幸に渡したデモテープの中の1曲だった。その後、彼らのデビュー曲である「悲しみが痛いよ」のカップリング曲としてレコーディングを終わらせていたが、CDプレス工場への納品直前に長戸から「先に取っておけ!」という指示が入る。この鶴の一声で、セカンドシングル用に確保されたという逸話を残す。イントロのピアノのフレーズは、森友が作成したデモ音源のフレーズをそのまま再現した。

T-BOLANの飛躍を担う重要なタイミングで送り出された「離したくはない」は、12月という季節に似合う、ピアノの静かな調べに導かれた深みのあるロッカバラード作品となった。

森友が創り出した歌詞とメロディが、濃厚でドラマティック、時にハードロック調のアレンジを身にまとい、聴くものの心の奥底に染み入ってくる。そして、一度聴いたら忘れられない珠玉のサビを、森友は生まれ持った芳醇な声質で本領発揮と言わんばかりに、渾身の情感を込めて歌い上げた。

結果として「離したくはない」は、当時のオリコンチャートこそ15位止まりだったが、有線で1年間にわたるロングヒットを記録する。その後、エバーグリーンなT-BOLAN史上に残る名曲のひとつとして愛され、歌い継がれているのは誰もが知るところだ。

T-BOLANの快進撃とメガヒットの連発を生み出す、大いなる礎

波乱万丈のバンド史を今なお刻み続けるT-BOLANは、史上初のシングル全曲を披露するツアー「T-BOLAN LIVE TOUR 2023-2024 “SINGLES” 〜波紋〜」を8月19日からスタート。それに先立ち、8月16日にはシングルベストアルバム「T-BOLAN COMPLETE SINGLES〜SATISFY~」を発売した。

これまでもベスト盤の類は幾つもリリースしてきたT-BOLANだが、シングルでのメガヒットを連発した彼らだけに、それだけを完全網羅、リリース順で収録した1枚は特別な意味合いを放つ。

「悲しみが痛いよ」から1曲ずつ遡り聴いていくと、いかに聴き馴染みのある楽曲、メロディをT-BOLANが生み出し続けてきたのか、改めて思い知らされるだろう。T-BOLANのシングル史自体が、90年代の国内音楽シーンの大きな1ページとなっているのは凄いことだ。

そんな偉大なる足跡の第1歩になったのが、森友嵐士が楽曲を手がけた「離したくはない」だった。この曲こそが、その後のT-BOLANの快進撃とメガヒットの連発を生み出す、大いなる礎になったはずだ。

ひとつの側面として80sジャパメタシーンの本流を創り出してきたビーイング。ジャパメタ側からの視点も加えてT-BOLANの音楽と足跡を振り返ることで、新たな気づきを与えるきっかけになるのを願ってやまない。

カタリベ: 中塚一晶

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