【横浜高・緒方物語】微妙な判定…慶応に敗れ、どん底からたどり着いた世界一 Uー18W杯〝個人4冠〟

神奈川大会決勝で敗れ、涙する緒方(中央)とうつむく村田監督(左端)=7月、横浜スタジアム

 この夏、これほどの挫折と栄光を味わった高校球児は全国を見渡してもいないだろう。8~9月に台湾で開催された野球のU―18(18歳以下)ワールドカップ(W杯)で、高校日本代表が悲願の初優勝を成し遂げた。強豪校から選ばれた選手たちの中で、ひときわ鮮烈な輝きを放ったのが横浜高の緒方漣内野手(3年)だった。

 大会を通じて24打数13安打、打率5割4分2厘をマークし、大会最優秀選手(MVP)に選ばれた。2次リーグまでの成績で首位打者と最多得点のタイトルを獲得。本職ではない二塁の高い守備力も評価され、ベストナインに相当する「オール・ワールド・チーム」にも選ばれた。世界に認められて〝個人4冠〟に輝き、「いろいろな方に支えられての優勝。感謝したい」。高校最後となった世界の舞台で有終の美を飾った。

 約1カ月半前、緒方は失意のどん底にいた。3連覇を狙った今夏の全国選手権記念神奈川大会。慶応高との決勝で2点リードの九回、内野ゴロで併殺を狙った遊撃での自身のプレーが微妙な判定となり、アウトが取れなかった。直後に逆転3ランを浴び、手中に収めていたはずの甲子園への切符はこぼれ落ちた。

 W杯世界一から数日後、記者が横浜高の長浜グラウンドを訪れると、「こんにちは」。いつものように屈託のない表情であいさつし、後輩の練習を熱心に見守る殊勲者の姿があった。

 経験した本人しか分かり得ない絶望の境地から、いかにしてはい上がってきたのか。名門で入学直後から不動の遊撃手を任され、神奈川高校野球をけん引してきた2年半に迫った。

「普段通りのプレー」のはずが…

 自他ともに認める根っからの「野球少年」。2歳からボールを握り、5歳で本格的に野球を始めた横浜高の緒方漣内野手(3年)はこんな自分を知らなかった。

 「完全に(気持ちが)落ちていた。野球をやりたいという感情にならなかった」。主将として夏の全国選手権神奈川大会3連覇を目前で逃した現実に、正面から向き合うことができなかった。

 7月26日、横浜スタジアムに詰めかけた2万7千人の大観衆が固唾(かたず)をのんで見詰めた慶応高との決勝。横浜が三回に先制を許すも中盤にひっくり返し、5―3とリードして九回の守備を迎えた。

 無死一塁。慶応の1番・丸田湊斗外野手(3年)が一、二塁間に放った打球を見ながら、遊撃手の緒方は併殺を狙うために二塁へ走った。二塁手からの送球を受け、ベースの側面を蹴って素早く一塁に転送したように見えた。しかし、判定は足が離れていたとして「セーフ」。その後、決勝の逆転3点本塁打を打たれた。

 全国屈指の名門校で1年春から正遊撃手として試合に出続けた緒方にとっては、コンマ何秒を削るために幾度となく練習してきた「普段通りのプレー」。非情な結末に、大粒の涙があふれた。

 あれから1カ月半の時を経て、緒方が思いを明かす。

「高校野球をやりきったことに悔いはなかった。(セーフの判定に)何でなんだろうという思いはあったが、審判さんが全て。ただ、あのプレーで、もっと違う踏み方もあったのかなという葛藤と、自分に向けて後悔は残った」

 寮から荷物を引き払い、自宅に戻ってからの約1週間は「動くのも苦痛だった」。家から出られず、大好きなはずの野球からも距離を置いた。中学時代の同級生に誘われて外出し、ねぎらわれたことで少しずつ前を向けるようになった。

 横浜の1学年先輩の玉城陽希・元主将(日体大1年)の存在も大きかった。敗退後、食事に誘ってくれた先輩は「俺も悔しい」と思いを共有し、力強く背中を押してくれた。

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