暗黒物質の研究などでの利用に期待される「超低放射能フレキシブルプリントケーブル」を開発

暗黒物質(ダークマター)の衝突・崩壊」や「無ニュートリノ二重ベータ崩壊」(後述)などの物理現象は、宇宙の謎に大きく関係していると考えられています。これらの現象は極めて稀にしか起こらない信号のみでしか検知できないとされていますが、そのためには現象とは無関係な信号を極力排除しなければなりません。

PNNL(パシフィックノースウェスト国立研究所)のIsaac J. Arnquist氏などの研究チームは、放射性物質の含有量が極めて少ない上に、製造コストを抑えた新しい「超低放射能フレキシブルプリントケーブル(Ultra-low radioactivity flexible printed cables)」を開発しました。このケーブルは物理学の研究だけでなく、将来的には量子コンピューターにも使用される可能性があります。

【▲図1: 今回の研究で開発された超低放射能フレキシブルプリントケーブルを使用した基盤回路の試作品(Credit: Andrea Starr, Pacific Northwest National Laboratory)】

■稀な物理現象を捉える場合に問題となる「放射性物質」

不安定な原子核の崩壊や高エネルギーな環境から放たれる「放射線」は、私たちの身近に広く存在します。地球の外から降り注ぐ宇宙線、岩石などに含まれるウランやトリウム、空気中に含まれるラドン、水に含まれる三重水素(トリチウム)、生物に含まれるカリウム40や炭素14などは、身近にある代表的な放射線源です。こうした自然界に存在する環境放射線のレベルはほとんどの場所で低く、人体に対して問題となることはありません。

しかし、物理学の研究ではこのような放射線が大きな問題となることがあります。特に、宇宙の物質の大半を占めているとされる「暗黒物質」の正体を探る研究や、謎の多い素粒子「ニュートリノ」 (※1) の性質を解き明かすことにつながるとされる「無ニュートリノ二重ベータ崩壊」の観測を行う研究では大きな問題です。

暗黒物質はその存在を重力でのみ知ることができる正体不明の物質です。恒星や惑星のような (可視光線を含む) 電磁波で観測できる普通の物質とは異なり、暗黒物質は電磁波で観測することができません。電磁波で観測できる物質には電磁相互作用が働くので、暗黒物質には電磁相互作用が働かず、従って普通の物質とは重力以外では反応しないと予想されています。ただし、暗黒物質もその正体によっては極めて低い確率で普通の物質と衝突する可能性があります。また、暗黒物質を構成する粒子が崩壊する時に発せられるエネルギーも電磁波として観測できる可能性があります。

もう一つの無ニュートリノ二重ベータ崩壊は、ニュートリノの性質を探る上で重要視されている現象です。ある特定の原子核は「二重ベータ崩壊」 (※2) という稀な放射性壊変を起こして崩壊し、通常は2個のニュートリノを放出します。ところが、極めて稀なことですが、ニュートリノがある性質 (※3) を満たしている場合にはニュートリノを生じない二重ベータ崩壊が起こることがあると考えられています。この稀なベータ崩壊が、無ニュートリノ二重ベータ崩壊と呼ばれる現象です。無ニュートリノ二重ベータ崩壊は観測されてもされなくてもニュートリノの性質に大きな制限を与えるため、その研究は謎の多いニュートリノの正体に大きく迫ることにつながります。

※1…ニュートリノとは、3種類の素粒子を含む素粒子の1グループです。他の物質とは極めて稀にしか反応せず、地球や太陽といった巨大な物体もほとんどすり抜けてしまうため、研究者の間では “幽霊粒子” というニックネームが付けられています。観測が難しいことからニュートリノの性質には多くの謎が残っており、その解明は現代物理学の主要な課題の1つとなっています。

※2…原子核に含まれる中性子のうちの1つが、1つずつの陽子・電子・反電子ニュートリノに崩壊する現象をベータ崩壊と呼びます。カルシウム48やゲルマニウム76といった一部の原子核は、1回のベータ崩壊は禁止されているものの、2回のベータ崩壊が同時に発生することは禁止されていない場合があり、これを二重ベータ崩壊と呼びます。二重ベータ崩壊では2回分のベータ崩壊が発生するため、発生するニュートリノも2つになります。

※3…二重ベータ崩壊では2つのニュートリノが必ず発生しますが、崩壊の直後にニュートリノ同士が出会って対消滅する場合はニュートリノが発生しない崩壊のように見えるため、これを無ニュートリノ二重ベータ崩壊と呼びます。無ニュートリノ二重ベータ崩壊が発生するためには、ニュートリノが粒子と反粒子 (物質と反物質) に分かれているのではなく、粒子と反粒子の区別がつかない「マヨラナ粒子」である必要があります。ニュートリノがマヨラナ粒子であるか否かは、素粒子全体を記述する理論に大きな影響をもたらします。

暗黒物質や無ニュートリノ二重ベータ崩壊を観測する研究では、崩壊によって生じたエネルギーを直接観測したり、崩壊によって生じた粒子が別の原子と衝突することで放たれるエネルギーを観測したりすることで成り立っています。ところが、自然界に存在する環境放射線は、このようなエネルギーによって生じる信号と非常に似たような信号を生じるノイズとなります。しかも、観測対象の物理現象が起こる可能性は極めて低いため、ノイズに紛れた真の信号を見逃してしまうリスクもあります。

このため、この種の研究では環境放射線を徹底的に排除する努力が払われています。例えば、宇宙線を遮断する岩盤を利用するために、研究施設や実験装置は地下深くに設置されます。イタリアのグラン・サッソ山の地下に設置された暗黒物質直接検出装置「XENON」や、岐阜県の神岡鉱山跡に設置された無ニュートリノ二重ベータ崩壊検出装置「カムランド禅」はその代表例です。

■実験装置そのものからの放射線を防ぐのは困難

しかし、実験装置そのものが放射線源を含んでいるという点は、これまで解決の難しい問題でした。稀な物理現象を捉える装置は電子機器で構成されているため、信号を伝送するためのケーブルが必要です。こうしたケーブルには通常の電子機器で標準的に使用されているのと同じ、良導体の銅箔と絶縁体のポリイミドを貼り合わせた「銅ポリイミド」が使用されます。

しかし、市販品の銅ポリイミドにはウランやトリウムが全体重量の数十億分の1程度の割合で含まれています。通常の用途では全く問題ないレベルなのですが、極めて稀な物理現象を捉える装置では、このわずかな放射線源でも問題となります。

放射線源をなるべく排除するために、今までは銅ポリイミドを使用していない別のケーブルを用いるか、もしくは銅ポリイミドそのものの使用量を少なくするかの対策が必要でした。しかし、銅ポリイミド以外を使ったケーブルは新しく開発しなければならないために製作コストが高く、銅ポリイミドの利点である信頼性や清浄さを担保できない可能性があります。さらに、このようなケーブルでは伝送できる信号の量がとても少ないという問題もあります。

また、銅ポリイミドの使用を減らす場合には、ケーブルの総延長を短くした回路を設計しなければならないという制約が伴うため、これまで蓄積されてきたノウハウを捨ててイチから設計し直す必要があるという問題もあります。

■放射性物質が極めて少ない銅ポリイミドケーブルを開発

【▲図2: 研究で試作された銅ポリイミド。測定しやすいように切り離しが容易な短冊状に製造されています。写真に写っている人物はいずれもPNNL所属のIsaac J. Arnquist氏とTyler Schlieder氏(Credit: Andrea Starr, Pacific Northwest National Laboratory)】

PNNLのArnquist氏などの研究チームは、放射性物質の含有量が極めて低い銅ポリイミドケーブルを開発するために、このようなカスタマイズされたフレキシブルケーブルを得意とするアメリカのQ-Flex社と協力して製造の各段階における放射性物質の混入度を正確に評価し、最終的に放射性物質が極めて少ないケーブルの開発に成功しました。

研究では、クラス10000 (※4) のクリーンルーム内で銅ポリイミドのプリント基板を試作し、製造の各段階で放射性物質がどれくらい混入したのかを、製造物・材料・溶液のそれぞれで測定しました。各段階での測定がしやすいように、銅ポリイミドの基盤は切り離し可能な短冊状に製造されました。

※4…米国連邦規格Fed.Std.209によるクリーンルーム内の清浄度の数値。ISO 14644-1ではクラス7に相当し、電子機器や食品の工場で一般的な清浄度クラスの1つです。

試作研究の結果、いくつかの製造段階で放射性物質が蓄積しやすい、あるいは除去されていない場面があることが判明しました。例えば、酸化を防ぐために銅を覆う薄いフィルムに使用されている接着剤には、かなりの放射性物質が含まれていることが判明しました。また、超音波による銅表面の洗浄では、放射性物質をほとんど除去できないことも判明しています。これとは逆に、炭素を利用した無電解メッキでは通常の電解メッキと比べて放射性物質が蓄積されにくいことなど、改善につながるプロセスも判明しました。

Arnquist氏らはこの実験結果を元に、いくつかの製造工程を加えるか変更した、新しい「超低放射能フレキシブルプリントケーブル」の製造方法を確立しました。このケーブルは市販品の銅ポリイミドケーブルと比べてトリウムの含有量が約10分の1、ウランの含有量が約100分の1に抑えられています。製造コストを比較的抑えることができた上に、伝送信号の量で有利な銅ポリイミドの利点を生かすことができます。

■物理実験だけでなく、将来的な量子コンピューターへの利用も?

今回開発されたケーブルは、暗黒物質や無ニュートリノ二重ベータ崩壊の観測を目指す次世代の実験装置で利用されるかもしれません。それだけでなく、将来的に登場する高性能な量子コンピューターに使用される可能性もあります。

量子コンピューターは外部からの刺激で簡単に壊れてしまう「量子もつれ」と呼ばれる不安定な状態を利用します。現在の量子コンピューターがケーブルにわずかに含まれている放射性物質の影響を受けているという報告はありませんが、より高性能な量子コンピューターを開発する段階では問題となる可能性もあります。超低放射能フレキシブルプリントケーブルは物理の実験の枠を超えて、実用的な環境で使用される可能性もあるでしょう。

Source

  • Isaac J. Arnquist, et al. “Ultra-low radioactivity flexible printed cables”. (EPJ Techniques and Instrumentation)
  • Karyn Hede. “Shh! Quiet Cables Set to Help Reveal Rare Physics Events”. (Pacific Northwest National Laboratory)

文/彩恵りり

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