関東大震災発生時、横浜港で多くの人命救った「三島丸」 号鐘がたどった数奇な運命とは

日本郵船「三島丸」(横浜みなと博物館蔵)

 「MISHIMA MARU 1908」と刻印された大きな鐘の表面には無数の傷が刻まれていた。関東大震災では横浜港に停泊していた日本郵船の貨客船「三島丸」がこの号鐘を打ち鳴らし、岸壁に逃れた市民らは港に響く鐘の音に導かれるように船へと避難した。傷だらけの号鐘は、火の海と化した横浜で船乗りたちが多くの人命を救った歴史を今に伝えている。

 1923年9月1日。欧州航路に就航していた三島丸は横浜港・新港ふ頭(横浜市中区)9号岸壁に停泊中、激しい揺れに襲われた。横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)は「あの大震災の瞬間、波止場に逃れた市民多数が劫火(ごうか)に逐(お)はれ海中へ投じた折港内にあつて逸(いち)早く救助してくれた」と三島丸の活躍を記事で紹介し、「大震災の恩人」との見出しでたたえた。

 市がまとめた「関東大震災 横浜市震災誌」などによると、三島丸は岸壁が崩れて係留索が切れたため港内に避難。船長は乗組員を指揮して救命ボートを下ろし、縄ばしごをかけるなどして避難者を収容した。三島丸への避難者数は最大3千人を超え、1日から9日までの間に延べ1025人の傷病者が船医による治療を受けた。

 火災による旋風にあおられ、市街地が瞬く間に火の海と化す中、避難者を船へと導くために港内に響き渡ったのが三島丸の号鐘だった。34年創刊の写真報道誌「横浜グラフ」(国際写真通信社発行)は「三島丸がこの鐘を打ちならし、海へ飛込む人々を救助したと云(い)ふ」と記している。

 三島丸の号鐘は、横浜みなと博物館(同市西区)で開催中の企画展「関東大震災100年 船と港から見た関東大震災」(11月5日まで)で展示されている。担当した三木綾学芸員は「号鐘の傷は関東大震災のすさまじさが分かる第一級の震災資料。多くの人命を救った三島丸の象徴といえる号鐘が現在に残っていること自体が奇跡的」と高く評価する。

 現在、この号鐘を所蔵している市八聖殿(はっせいでん)郷土資料館(同市中区)の相澤竜次館長は「号鐘は普通、外側に傷は付かないが、これは周囲が傷だらけなので半鐘のように相当な力を込めてハンマーでたたき続けたのだろう。切迫した状況で命懸けで人命を救ったことが伝わってくる」と語る。

 貴重な震災資料である号鐘がなぜ、どのように残されたのか。相澤館長の説明から、号鐘がたどった数奇な運命が浮かび上がった。

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