【読書亡羊】移民大国・フランスの実態――富豪たちの驚きの人権意識 アリゼ・デルピエール著『富豪に仕える』(新評論) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!

野次馬根性で覗いてみたら

中公新書の名著『アーロン収容所』(会田雄二著)で「イギリスの女性たちは日本兵の前で平気で全裸になって着替える、それは日本兵捕虜、ひいては東洋人・有色人種を人間扱いしていないからだ」という主旨の記述を読んで驚愕したのは何年前だっただろうか。

80年前の人権意識なんてそんなものだろうと言えばその通りなのだが、2023年の今も場面や状況によってはほとんど変わらない意識がそのまま残っている、という事実を垣間見てしまった。アリゼ・デルピエール著、ダコスタ吉村花子訳『富豪に仕える』(新評論)を読んだためだ。

本書は社会学者である筆者がナニー(ベビーシッター)としてフランスの富豪の邸宅内で働き、主人である富豪一家と、使用人として豪邸に住み込みで「仕える」人々の関係性や意識、労働環境などを調査した成果をまとめている。

大富豪の生活を覗き見る野次馬根性でページを開いたが、単なる上下関係や雇用関係、疑似家族関係というような言葉では言い表せない複雑な構造が、主人と使用人の間には存在していることが分かる。

そこでは確実に「社会問題」が生じているのだが、一体何からどう手を付ければ問題の解消になるのか、皆目見当がつかないほど複雑化し、構造として出来上がってしまっているのだ。

人種差別的言動が横行

使用人がトイレに行く時間がもったいないからと、おむつの装着を義務付ける主人がいれば、自宅でのパーティで裸で歩き回り、野獣が暴れた後のように寝室を散らかしたまま使用人に掃除をさせて憚らない主人がいる。

日本で言うところの「ヒルズ族」のような一代で成り上がったネオ富豪だけではなく、代々貴族の家系にあるような筋金入りの富豪が、こうした振る舞いを平気で行っているという。
なぜそんなことをして「平気」なのか。

そこには『アーロン収容所』のケースと同様に、人種差別問題が横たわっている。使用人の多くは海外からやってきた移民であり、アフリカ人、アジア人などが中心となるのだが、そこに存在する「人種差別意識」は日本でイメージするようなものよりもはるかに強烈で、身も蓋もあったものではない。

中国人のメイドはいやだからフィリピン人か黒人かアラブ人がいい、イスラム教徒は絶対に雇いたくないといった発言はごく普通で、移民出身の使用人に対する人種差別的ステレオタイプはタブーどころか、堂々とまかり通っている。

富豪たちは、アフリカ・アジア・ラテンアメリカの使用人に対して「不快なにおい、不潔な体、怪しい衛生観念、病原菌」を邸宅内に持ち込まれることを危惧する一方、使用人に対してはむしろステレオタイプであることを期待してもいる。

アフリカにルーツはあるもののフランス生まれ、フランス育ちのある使用人は、あえてアフリカの民族音楽を歌い、ダンスを身に着け、スパイスの効いたアフリカ料理を覚えたのだという。オリエンタルな雰囲気や文化をまとわせ、邸宅内に持ち込むことを期待されてもいるからだ。

さらに黒人女性には、体が丈夫できつい労働をこなすことができるとともに、母性にあふれ、フランスになじみながらもエスニックな要素を適度に失わず、明るさがありながらも控えめでいなければならないという勝手なイメージも背負わされ、それに反すれば解雇の憂き目にあうというのだからたまらない。

誤った「ノブレス・オブリージュ」

では富豪たちは使用人を奴隷のように扱っているのかと言えば、実はそうではない。

筆者の取材に、主人である富豪たちは「自分たちにとって、長く務めた使用人は家族同然だ」と答えている。実際、驚くような給料を与えられ、旅行やバカンス先にまで帯同し、一生かかっても手が届かないような高級ブランドのスカーフやカバンを買い与えられる使用人も多い。

それらは富豪にとっては痛くもかゆくもない出費だが、使用人には「富豪の一家の一員」のような錯覚を覚えさせる。しかしどこまで言っても錯覚でしかなく、どれだけ生活と思い出、時間を共有し、高価なプレゼントを贈ったとしても、富豪たちは夕食に使用人は同席させないのだ。

むしろ、富豪の間では子供の頃から「使用人と自分たちとの絶対的な区別」をし、「うまく使える」術を身に着けることが求められるという。

そこにはさらに、富豪たちが自らの振る舞いを正当化する社会的文脈も加わってくる。

「本来なら移民や不法滞在者で貧しい暮らしを強いられる身分の人間たちが、使用人として働くことを許されたことによって、相応の賃金を得られるのだからいいだろう」というもので、そのことを端的に表した富豪の発言が紹介されている。

私(筆者)はある雇用主に、使用人が物置に寝ていると聞いて驚いたと言ったが、逆に「橋の下で寝るほうがいいと思いますか」と聞き返された。そうした視点に立てば、この使用人は住所不定だった時よりも恵まれているだろう。だが、その見方には明白な根拠もなければ、人間らしさも欠けている。

ノブレス・オブリージュ(フランス語で「高貴なるものの義務」)の取り違えが起きていると言わざるを得ない。

「橋の下で寝るよりはマシ」

主人たちよりも早く起きて朝食の準備をし、部屋の掃除、子供の世話、時には主人の職務のサポートまで行い、汚物を片付け、主人より先回りしてすべての物事の準備を終え、たまたま主人が求める食材を切らしていれば舌打ちをされ、クビをちらつかせられ、邸宅内で誰よりも遅く眠りに就く。

常に笑顔で慎み深く、清潔感があり、容姿もそれなりに優れていなければならない。主人が実際に口に出して指示するよりも前に、主人の思考回路を理解して先回りして準備しておく必要があるというが、こうした能力があれば別の仕事でも相応に活躍できるのではないかと思わずにはいられない。

しかしそれでも使用人という職業を選ぶ人がいて、同じ仕事を長く続ける人もいるのが実態だという。その理由は、一つは富豪自身が言うように「橋の下で寝るよりはまし」だというフランス社会の移民や国外にルーツのある人たちの置かれた状況がある。

おむつを履かされたり、労働法が立ち入れない家庭内で体調が悪くなるまで酷使されたりするケースはあっても、使用人という職業は工事現場などの肉体労働よりもいい賃金を得られる。

それだけではない、主人に対する愛憎は渦巻きながらも、「これほどの富豪に仕え、認められている自分」に満足できるという面もあるため、多くの人たちが使用人という職業を選んでいるというのだ。
実に根が深い。

フランスは移民大国であり、移民支援のための様々な施策が講じられていることは事実だ。だが一方で、富豪の邸宅内には労働法も人権意識も希薄な社会が出来上がっている。本書は、まさに「知られざる世界」の一端を見せてくれる。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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