80年代に大復活!ティナ・ターナーが「ロックンロールの女王」と呼ばれるのは何故?  ティナ・ターナー、ソロ時代のヒットソング等を網羅した『クイーン・オブ・ロックンロール』がリリース

ティナ・ターナーに冠された称号は、“クイーン・オブ・ロックンロール”

2023年も残すところわずかになってきたが、今年も世界の音楽シーンに貢献したビッグネームの訃報が相次いだ。中でも5月のティナ・ターナー逝去のニュースは、大きな衝撃を伴って世界を駆け巡った。

ロックンロール〜ソウルミュージックの歴史をそのまま体現したような、あのパワフルな歌声とパフォーマンスによって植え付けられたいつでも “力強い女性シンガー” というイメージを勝手に抱いていただけに、にわかには信じがたい事実だ。享年84、この場を借りてあらためて哀悼の意を表したい。

ロックンロール誕生以降の大衆音楽の長い歴史において、その歴史の一部を創造して大衆の大きな支持を得た超がつくようなビッグスターには、〜の王、〜の女王といった称号がつく場合がある。

▶キング・オブ・ロックンロール
 エルヴィス・プレスリー   ▶ゴッドファーザー・オブ・ソウル
 ジェイムズ・ブラウン   ▶クイーン・オブ・ソウル
 アレサ・フランクリン   ▶キング・オブ・ポップ
 マイケル・ジャクソン   ▶クイーン・オブ・ポップ
 マドンナ   ティナ・ターナーも例外ではない。ティナに冠された称号は、“クイーン・オブ・ロックンロール”。実に言い得て妙ではないか。そして、今年2023年11月24日、ティナ・ターナーのソロ時代のヒットソング等を網羅したベストCD『クイーン・オブ・ロックンロール』がリリースされた。

アイク&ティナの最大ヒットにして代表曲「プラウド・メアリー」

そもそもティナ・ターナーはアイク&ティナ・ターナーというユニットで1950年代終盤から活動、ヒットチャートに初めて顔を出したのが1960年のこと。ロックンロール隆盛期からソウルミュージック黎明期へと移行する過渡期ともいえる時代から多くのヒットソングを世に送り出していた。その多くがアフロ・アメリカンによるレイス・ミュージックから派生したロックンロールを基盤としながらも、非アフロ・アメリカンによる “ロック” への橋渡しとなるような作品ばかり。

ティナの “歌唱” は当時のアフロ・アメリカンのトレンドになりつつあったソウル歌唱を漂わせながらも、もうひとつのトレンドたるロック歌唱を主としていた点は見逃せない。それは同時期に台頭してきたアレサ・フランクリンの歌唱変遷と比較すれば一目瞭然、ティナが “クイーン・オブ・ソウル” ではなく、“クイーン・オブ・ロックンロール” と呼ばれる所以はここにある。

フィル・スペクターが肝いりでプロデュースした「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」(1966年)がアメリカ以上にヨーロッパで大ヒットしたことや、アイク&ティナの最大ヒットにして代表曲「プラウド・メアリー」(1971年)が米白人ロックバンド、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル(CCR)のカバーだったことは、今考えれば妙に納得できることだ。

ティナ・ターナー、ソロ時代の大復活劇

さらに “クイーン・オブ・ロックンロール” の称号を決定的にしたのは、アイクとの決別を経たソロ時代(1974年〜)における大復活劇があったからこそ、と言えよう。

ティナは1970年代に4枚のソロアルバムをリリースしている。しかし、ソロデビューアルバム『ティナ・ターンズ・ザ・カントリー・オン』(1974年)、レッド・ツェッペリンのカバー「胸いっぱいの愛を」収録の『アシッド・クイーン』(1975年)、エルトン・ジョンやボブ・シーガーのカバーを収録した迷作『ラフ』(1978年)、欧州のみのリリースとなった『ラヴ・エクスプロージョン』(1979年)は、なにも事は起こらなかった…。

1960年代に活躍したアーティストが、変遷目まぐるしいショウビズ界から時代の波に乗れず消えていく…。ティナ・ターナーもそうなっていくのか…。1980年代に入る頃にはティナの名は、忘却の彼方へと消え去ったように見えた。

玉石混交だったディスコ時代が終焉を迎えポスト・ディスコ期へと突入した1983年、突如としてティナ・ターナーは、アル・グリーンの名曲「レッツ・ステイ・トゥゲザー」をリリースして世界の度肝を抜いた。一にも二にもティナの大復活劇はこの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」が狼煙になったといえよう。

ブラコンテイストが加味され、デジタルソウルの風潮に見事に乗った「レッツ・ステイ・トゥゲザー」は、衰えぬ艶やかな歌声と相まって、結果として欧州を中心に大ヒットを記録。それを受けて作成されたアルバム『プライヴェイト・ダンサー』(1984年)からは次から次へとメガヒットが生まれ、アルバムはティナ史上最大のセールスをたたきだし、1960年代をはるかに凌ぐ黄金期がティナに訪れたのだ。この復活劇の立役者が、本国アメリカではなく英国のスタッフ陣だったというのが、“クイーン・オブ・ロックンロール” たるティナらしいと言うべきだろうか。

長いキャリアにおけるティナの歌声は永遠不滅

1980年代初頭、くすぶっていたティナを再び表舞台へと担ぎ出したのは、イギリスのプロデューサーとミュージシャンだった。アメリカ(アフロ・アメリカン)が生んだロックンロール、ソウルミュージックに憧憬を抱いたアーティストによって勃発したブリティッシュ・インベイジョンという背景を踏まえて、その大いなる伝播者だったティナを担ぎ出したのはごく自然な流れだったのだろう。まだシーンから消えるのは早いもう一旗あげようぜ、とばかりに。そこには憧憬はもとより、尊敬や敬愛の念が込められていたのは明らかだ。

ティナの新たな最盛期となった1980年代にリリースされたアルバムは3作。『プライヴェイト・ダンサー』(1984年)、『ブレイク・エヴリ・ルール』(1986年)、『フォーリン・アフェア』(1989年)で、80年代を代表するような大ヒットソングを多数輩出、すべてのアルバムがことごとく大ベストセラーとなっており(特に欧州での人気っぷり!)、まさしくティナにとっては遅れてきた我が世の春といったところ。

この80年代作品に共通しているのが、サウンドプロダクションや歌唱、さらにステージングにおいても、ロッキッシュな味付けが施されている点。そう、ティナの “クイーン・オブ・ロックンロール” のイメージが強く印象付けられたのは、やはり1980年代の大復活以降こそが決定的だったのだ。それにしてもこの大復活劇、振り返ってみるにつけすべてのヒットシングルに感涙してしまう。長いキャリアにおけるティナの歌声は永遠不滅、あらためてここに感謝の意を表したい。

Information
▶︎ティナ・ターナー「Queen Of Rock 'n' Roll / クイーン・オブ・ロックンロール」 https://wmg.jp/tinaturner/discography/28595/

カタリベ: KARL南澤

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