【追悼:HEATH】X JAPAN のボトムを支える抜群のベーシスト!きっかけはHIDEとの出会い  突然過ぎたHEATHとの別れ、何よりHEATHのご冥福を祈りながら、X JAPANの行方も見届けていきたい。

盟友YOSHIKIとの共演を最後に。突然過ぎたHEATHとの別れ

X JAPANからの知らせは、どうしていつも予期せず衝撃的なのだろうか。良い知らせであれば嬉しさも倍増するけれど、残念ながら今回は違っていた。

“ベーシストのHEATHが、大腸がんにより55歳の若さで急逝” 。X(旧Twitter)のトレンド1位に急上昇したキーワードと速報を見て、何かの間違いだと信じられないファンがほとんどだっただろう。

それもそのはず、今年の8月末にYOSHIKIのディナーショーにスペシャルゲストとして登場し「Rusty Nail」を2人で奏でていたのだから、予期せぬ訃報を到底受け入れられないのは無理もないことだ。結果的にYOSHIKIとの共演が、HEATHにとって最後のステージになってしまった。

動画サイトにアップされたその時の映像から、いつもと変わらぬクールな肢体とルックスでベースを弾くHEATHの姿が確認できる。YOSHIKIとのステージ上での掛け合いも終始リラックスしたムードで、二人の信頼関係が浮かんでくるようだ。

「また東京ドームで皆さんとお会いしたいですね」とHEATHはファンに向けて語ってくれたが、様々な要因で活動が膠着状態にあるX JAPANでのライヴ実現を、心から望んでいた様子が伺え、今見ると胸にグッとくるものがある。

HEATHの訃報を受けて、メンバー全員から追悼コメントが出されたが、そのどれを読んでもHEATHがいかにX JAPANの中で愛され信頼される存在だったのか、痛いほどにひしひしと伝わってきた。

とりわけ、ベーシストとドラマーというバンド内で特別に深い関係にある “リズム隊” を長年に渡って組んだYOSHIKIにとっては、その悲痛な思いは計り知れないだろう。

きっかけはマイケル・アンソニー。ベーシストHEATHを形造った洋楽HM/HR

1968年生まれのHEATHは、洋楽ロックが流れる家庭に育ち、小学4年生で早くもロックコンサートを体験した。1979年9月に大阪府立体育会館で行われたヴァン・ヘイレン2回目の来日公演で、その体験により本格的にロックに目覚め、ベース演奏にものめり込んでいった。

ヴァン・ヘイレンといえば、エディのギターに刺激を受ける人が大半だが、HEATHはマイケル・アンソニーのベースに最も衝撃を覚えたというのだから興味深い。マイケルはバンドのボトムを支えるベースプレイと見事なコーラスワークを得意するプレイヤーだ。一方でライヴ中に用意されたソロタイムにおいては、ステージ狭しと動き回りながら強く観客にアピールするパフォーマンスも披露してきた。

X JAPANのライヴにおいて、テクニックを押し出すよりもエンタメ要素を盛り込んで魅せるベースソロを披露していたHEATHだが、ソロタイムを組み立てる上で、イメージのどこかにマイケルから受けた初期衝動が宿っていたのかもしれない。

それからは洋楽のHM/HRを中心に聴き漁り、ロックへの造詣を深めたHEATHは、マイケルの他に影響を受けたベーシストとして、モトリー・クルーのニッキー・シックス、キッスのジーン・シモンズ、ジューダス・プリーストのイアン・ヒル等の名前を挙げている。いずれもピック弾き中心で、バンドサウンドに馴染み、強固にボトムを支えるプレイを信条とするイメージが強い。

最も好きだというニッキーからは、HEATHのヴィジュアルが醸し出す雰囲気を見ても、確かにその影響が感じ取れるものの、それとは真逆で地味な存在のイアンは少々意外に思える。ライヴでは定位置から動かず黙々とベースを奏で、バンドの根幹を支えるイメージが強いイアンだが、こうしたタイプのベーシストをHEATHがリスペクトしていたのは、X JAPANにおけるスタンスの一面を表しているようだ。

前代未聞!何もかもが破格のスケールで始まったX JAPANでのキャリア

ベースを弾き始めたHEATHは、中学でバンド活動を開始。やがてライヴハウスとの繋がりが生まれ、当時隆盛した44マグナム等のジャパメタからの影響も受けていった。

ライヴシーンに身を置く中で、共通の友人を介して繋がりを持ったHIDE(hide)との出会いが、HEATHの運命を変えていく。1990年には日本武道館でのXの公演を観に行き、想像以上の衝撃を受けた。洋楽志向のHEATHからしても、当時破竹の勢いに乗るXのライヴは刺激的だったに違いない。

それから暫くして、XからTAIJIの脱退が発表された。新ベーシストを探すXに対し、HIDE(hide)を介してHEATHもオーディションを受ける運びとなり、結果的にTAIJIの後任として加入が決定したのだから、まさに運命的な流れだ。

かくして1992年5月、ニューヨークのロックフェラーセンターにおいて、HEATHの加入が世界のメディアに向けて正式発表された。HEATHの初レコーディングはアメリカでの「ART OF LIFE」。以前のコラムX JAPANの奇蹟!YOSHIKI の隣には天賦のハイトーンボイス TOSHI がいた!でも書いた、X JAPAN史上に残る30分近くに渡る一大長編作だ。TAIJIのパートを全て差し替える形で、HEATHはこの難曲に向き合い、海外のスタジオで的確にプレイしきった。

X JAPAN加入後の初ライヴは帰国後の東京ドーム、さらに初のメディア出演は、同年末の紅白歌合戦だったのは有名なエピソードだろう。

HEATHは当時まだ24歳。いくら卓越したテクニックを持ったベーシストであっても、並みの心臓の持ち主では到底こなせない大舞台の連続で、相当なプレッシャーを感じてもおかしくない。しかも加入したのは日本が世界に誇るモンスターバンド、X JAPANだ。そうした想像を絶する難局をHEATHは臆することなく全てこなし、期待に応える形でX JAPANでのキャリアを積み重ねていった。

X JAPANに重低音とバンド内部の安定をもたらしたHEATHの功績

X JAPANのメンバー、ベーシストとしての重責を長年担ったHEATH。オーディションでのHEATHの堂々とした立ち振る舞い、空気感からメンバーが感じ取った通り、TAIJIの後任としてX JAPANに最も相応しいベーシストだったのは明白であった。歴戦のメンバーの目に狂いはなく、HEATHへの信頼は最後まで揺るぎなかった。

ベーシストとしては、前任のTAIJIをリスペクトしながらも単に追従することなく、サウンドにせよパフォーマンスにせよ、自らのスタイルを貫いた。

スラップをはじめ、派手なテクニックを駆使するTAIJIのプレイは、個々のメンバーが奏でる音とぶつかり合う緊張感が魅力だった。一方のHEATHは、前述した洋楽ベーシスト達の影響もあり、個人技を繰り出し派手なフレーズを多用するよりも、ボトムの低い重低音とルートを重んじたフレージングで、楽曲の根幹を強固に支えた。楽曲の魅力を引き立てる抜群の安定感は、HEATHならではの力量とセンスがもたらしたと言える。

そうしたベーシストとしてのスタンスを取れたのは、HEATHがX JAPANに途中から加入した立場だったからに他ならない。それはバンドの出音を客観的に捉え、自らの役割を果たす上で導き出した最適解だったのだろう。

ストイックな姿勢と的確なベースプレイ、飾らない穏やかな人柄で既存メンバーからの厚い信頼感を得たHEATH。X JAPAN自体は再結成や解散を繰り返すなど、YOSHIKIが言うように「波乱万丈」の歴史を刻み続けているが、音楽面でも人間関係の面でもバンド内に安定をもたらすのに、HEATHが少なからぬ役割を果たしたのは間違いない。

開催予定のHEATHメモリアルコンサート。X JAPANから呈示されるものとは?

HEATHの訃報からほどなくして、THE LAST ROCKSTARSとしてのステージに立ったYOSHIKIとSUGIZO。そのライヴにおけるサプライズとして、PATAをゲストに迎え入れ「Rusty Nail」を演奏してくれた。HYDEが歌う切ないメロディは、まるでHEATHへの鎮魂歌に聴こえた。

11月28日にはHEATHのお別れ会、献花式が開かれ、大勢のファンが献花に訪れたのちに、HEATHとの別れを惜しむ関係者やアーティストが集った。YOSHIKIによる「Endless Rain」のピアノ独奏は、HEATHを鎮魂するメロディのように響いた。YOSHIKIの口からは、HEATHのメモリアルコンサートに向けて、前を向いて進んでいく決意表明もなされた。

注目されたToshiの姿はそこにはなかった。誰よりもX JAPANの再始動を待ち望んでいたHEATH。その願いはメモリアルなコンサートにおいて、全員が揃う完全な形で叶うのか?YOSHIKI、Toshiがどういう決断を下すのか?何よりHEATHのご冥福をお祈りしながら、その行方も見届けていきたい。

カタリベ: 中塚一晶

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