[社説]奄美復帰70年 歴史を糧に共に進もう

 「太平洋の潮音は わが同胞の血の叫び 平和と自由をしたいつつ 起てる民族20万 烈々祈る大悲願」

 奄美大島、加計呂麻島、請島、与路島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島からなる奄美群島の「日本復帰の歌」である。奄美の人々が自らの明日を自ら選び、切り開いた歴史だ。

 大悲願の復帰から、きょうで70年になる。

 1946年2月、連合国軍総司令部(GHQ)の「2.2宣言」で、奄美や沖縄など北緯30度以南の島々は米軍統治下に置かれた。

 終戦直後、島々は本土から孤立し混乱の中にあったが、2.2宣言により完全分離されることで、住民の生活はさらに困窮を極めた。

 軍政府による政策は住民を翻弄(ほんろう)。その一つ49年の「食糧3倍値上げ」は特に大きな反発を呼んだ。

 群島の全市町村長と経済団体が値上げ反対の陳情団を結成して沖縄に渡り、軍政府に直談判。住民による組織も発足し、食糧の値下げや配給基準の確保などを訴えた。

 「アメリカの下では食えない」。全群一致の声は難交渉の末、価格の引き下げを勝ち取る。こうした生活闘争は復帰運動の原動力となった。

 運動を外から支えたのが本土在住の奄美出身者だ。

 当時の奄美出身者は群島約22万人に対し、本土には約18万人。中心母体となる奄美連合が各地に発足し、日本政府や国会、米国要人への請願・陳情に奔走した。

 復帰の嘆願署名は署名率99.8%に上り、復帰は民族自決の歩みでもあった。

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 しかし、現状は必ずしも悲願がかなったとは言い難い。

 復帰後、奄美群島復興特別措置法(現在は振興開発特措法)が制定されたものの、2020年度の1人当たり所得は全国の約7割にとどまり、本土との格差は依然残る。

 人口は復帰時からほぼ半減の約10万人となっており、地域活性化は大きな課題だ。

 そうした奄美に19年、戦後初めて陸上自衛隊の駐屯地ができた。国の配備要請に対し、活性化を期待して奄美市と瀬戸内町が受け入れた。

 部隊はミサイルを配備し敵を迎え撃つ任務を担う。奄美大島を拠点とし、群島の島々で米軍との合同訓練が相次いで実施されている。

 敵基地攻撃能力(反撃能力)の要となる長射程ミサイル配備も浮上するなど、「静かで平和な島」は急速に要衝へと変化している。

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 貴重な固有種が生息する「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」は21年、世界自然遺産に登録された。

 鹿児島県が昨年、奄美在住・出身者に実施したアンケートでは「日本で群島が果たすべき役割」について「自然環境の保全」とする意見が最多で「伝統文化の継承」がそれに続いた。一方「領海・排他的経済水域保全」とする回答は14%だった。

 70年前、奄美の人々が復帰に望んだのは自由と自己決定だった。奄美の課題と沖縄の課題は重なる部分が多い。歴史を糧に島々の未来を描いてほしい。 

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