【読書亡羊】「ガチの事態」が起きたからこそやってきた「専門家の時代」 川島真・鈴木絢女・小泉悠編著、池内恵監修『ユーラシアの自画像』(PHP) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする2023年最後の時事書評!

すでに変化は起きている

世の中のフェーズ(局面)の変化、というのは、往々にして後になって気づくものである。その意味では、国際情勢の解説を誰が担うかという問題は、明らかに2022年のロシアによるウクライナ侵攻によって大きく変わった。「専門家の時代」の到来だ。

それも、メディアを通じて多くの人に発信できる力を持つ専門家の時代、といったほうがいいかもしれない。それは2023年を通じて強まり、2024年もその傾向は続くだろう。

「偽情報や陰謀論が蔓延する中で、何を言っているんだ」と思われるかもしれない。また、SNSの隆盛でド素人と専門家の見解が同じ土俵に載せられる現象を嘆いた『専門知はもういらないのか』(トム・ニコルズ著、みすず書房)が出たのは2019年。以降も状況は悪化し続けているはずなのに、どうして「専門家の時代」なのか、と問われるかもしれない。

しかしすでに変化は起きている。それを強く感じたのは、『ユーラシアの自画像 「米中対立/新冷戦」論の死角』(PHP)を読んだためだ。

少し前に刊行された本だが(2023年4月刊行)、2023年の最後の書評として、本書を紹介したい。

世界を俯瞰する視点を持つために

本書は2020年4月から2023年3月にかけて東京大学先端科学技術センターで行われた研究プロジェクトの一部をまとめたもので、中国・ロシアを軸に、東南アジアや中東をも含むユーラシア全体を俯瞰できる作りになっている。これは「地球儀を俯瞰する」安倍外交の視点にも重なるものだろう。

2023年4月の刊行のため、ロシアによるウクライナ侵攻後の状況は踏まえているが、当然ながら刊行以降に起きた事象については分析に入っておらず、何らかの「予言」めいたこともされてはいない。

しかし大局に立って、自らの専門性を駆使して世界を見ておくと、その後に起きる事象をも汲んだ分析ができるものなのだ、と本書に気づかされることになる。

例えば序章で、東大大学院の川島真教授が「米中対立は確かに深まっているが、それだけで世界を語れるのか」と疑問を投げかけている。全くその通りだろう。戦後の日本政治・外交は「まあアメリカと同じ側を選んでおけば大きくは外さない」とやってきたが、2023年10月に起きたイスラエルとハマスの対立で、「アメリカ追従こそ正解」の構図は大きく揺らいでいる。

これは「後から読みなおすことによって答え合わせができる」という読者の役得でもあるが、大局から見る視点を持ちうるからこそ、見通しが古くならないのだろう。

認知戦における中国の「弱点」とは

また、本書では保守派であれば関心が高く、「結構知っている」国である中国・香港・台湾・北朝鮮を巡る本書の論説を読めば、いかに自分が「全然知らないか」を突きつけられることになる。

なぜ北朝鮮がこうもロシアを支持するのかを解説した第4章(宮本悟「北朝鮮の世界観から見た世界の対立」)を読めば、「北がロシア寄りなんてあたりまえじゃないか」の認識も覆るに違いない。そもそも中露ともに西側(アメリカ)に接近していた時期があり、その当時の北朝鮮の反米姿勢は文字通りの「孤軍奮闘」だったからだ。

あるいは、中国がロシアによるウクライナ侵攻をどう見ているか、を分析した第10章(鈴木隆「『お仲間』の政治学――中国のロシア研究とロシア・ウクライナ戦争の『教訓』」)では、多数の中国語文献を参照。ウクライナ侵攻が起きてから「中国はロシアに学ぶ」「ウクライナの教訓を台湾で活用するつもりだ」とざっくり語られるこの辺りの話を、より個別具体的に知ることができる。

「ロシアは今回、認知戦の領域で敗北を喫している」が、その理由を中国は「西側が自らの民主主義や自由主義を喧伝するのを控え、『事実調査確定(fact-check)の世論戦』を実行したことによる」と分析している。こうした認識は、台湾有事で中国が仕掛けるであろう認知戦を防ぐうえで、重要な指摘である。

政治・外交は「総合芸術」

こうした知見は、本来、日々の生活で切実に求められるものではない。読者にとって、専門家の文章や意見は時に迂遠であり、「それが一体、今を考えるうえで何の役に立つのか」と疑問に思うこともあるだろう。

しかし、外交や政治はいわば「総合芸術」であり、歴史や文化はもちろん、ありとあらゆる側面から検証した情報を集めたうえで、何をどうすべきかが判断される。本書が取り組んでいるのはまさに、総合芸術である日本の外交において、正確な判断を下すための下地作りなのだ(この本の元になった研究会は、外務省の外交・安全保障調査研究事業補助金の助成を受けているのもそうした理由からだろう)。

2023年の年末を生きる我々は、この一年あまりでウクライナやガザ地区で起きているような、そして台湾で起きるかもしれないような「ガチの事態」を前にしては、やはり専門家でなければ状況の解説さえ担うことができないのだと、国際情勢の悪化で嫌というほど思い知らされることにもなった。

これまで「リベラル(左派)だから」と括られてきた朝日新聞やNHKにも、軍事の専門家や自衛隊OB、防衛研究所の職員が頻繁に登場することになったのも、その証左だろう。

そうした専門家の一人で本誌にも登場した、東大先端研で准教授になった小泉悠氏も、最終章でロシア・ウクライナ戦争に関する論考を寄せている。

現実に事が起きると、これまでの右左の枠を超えて、過去の経緯と現状を深く理解し、一般視聴者に解説できる能力を持つ人が発信者になるという当然の現象が起きたのである。

ウェブメディア全盛で「誰でも発信者になれる」ようになったことは確かだが、そこからさらに一歩、フェーズが変わったのが現在だ。それこそが「専門家の時代」の到来である。もちろん、専門家でも間違えることはあるわけだが、ならば非専門家ならなおさらというほかない。

本当の意味での「国力のある国」とは

元陸自幹部で、ご自身も専門家としてウクライナ情勢の解説に励んでいる渡部悦和元東部方面総監も、「正しい情報を知りたければテレビを見ろ」と仰っていたのは象徴的である。

もちろん、「まともなニュース番組」という前提はつくのだが、認知戦の知見を持つ渡部氏だからこその発言でもある。ネットの魔窟をのぞき込み、偽情報に騙されるくらいならマスメディアから情報を得ていた方が、まだマシな情報環境を持てるからだ。

「ガチの事態」に至ると、いわゆる平時のような「ある報道の論評や別の論者の批判」、つまりカウンター的な言説では、読者の「知りたい欲」を満たすことはできない。聞きたいのは誰かの批判ではなく、そこで何が起き、これからどうなるのか、だからだ。

そして本誌読者の多くが危惧するように、中国が「ガチの事態」を起こしかねない状況が依然として続いている。こうした危機的状況下で、何よりも大事なのは情報と分析の正確さである。

専門家が活躍でき、一般読者(視聴者)と良好な関係を築くことができる社会こそ、本当の意味で「国力のある国」なのだろう。本書はそんな「基本」を教えてくれる。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

© 株式会社飛鳥新社