鈴木天眼

 長崎港の西岸、旭橋近くの川辺に「ステッセル将軍一行上陸の碑」がある。日露戦争の激戦地、旅順での攻囲戦で敗れた敵将、ステッセル将軍らは降伏して母国へ送還される途中、一時長崎に滞在した▲上陸は1905年1月14日。3日後には長崎を離れた。この間、大国の敗将に心境を聞こうと取材を試みた新聞社があった。鈴木天眼率いる「東洋日の出新聞」。この辺の事情は天眼の研究者で本紙の元論説委員長、高橋信雄氏の著書に詳しい▲それによると、将軍らは稲佐の実業家宅に宿泊したが、警察が厳重に警備し取材が難しい。天眼が周到に準備を整えたとみられ、日の出の記者は会見を成功させる▲もっとも記事は警察の検閲によって前書きや内容の多くが削除され、読者には何が書かれているのか不明なものに。世界的に注目される敗将のインタビュー記事は価値を損ねた▲警察がメンツのために削除したという思いもあって天眼は怒った。警察に向かい、紙面で「信任できない」と批判した▲天眼は後の日露講和条約締結の際、世論が講和内容に不満を募らせ、日比谷焼き打ち事件を起こすほど沸騰した時にも、世論におもねらず、これ以上犠牲を増やすべきでないと講和賛成の論陣を張った。彼の慧眼(けいがん)と不屈の信念は先行き不透明な今にも通じる。(屋)

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