軍艦島の灯と暮らしを追い続け 長崎の写真家・村里さん(90) 3千枚の写真が語る歴史

端島の写真を前に思い出を語る村里さん=長崎市花園町の自宅

 長崎市のアマチュア写真家、村里榮さん(90)は、同市の端島(軍艦島)で1974年1月の炭鉱閉山前後、消えるヤマの灯と暮らしをレンズ越しに追い続けた。15日で閉山から50年。「時代の大きな流れの中で起きた出来事。歴史の目撃者として後世に伝える責任がある」との思いを強くする。
 端島との出合いは1950年代の後半。52年、同市浜町にあった岡政百貨店に入社し、室内装飾関連の注文を受けたのがきっかけだった。65年ごろ島内に開業したスナック「白水苑」の内装を手がけるなど10年ほど仕事で足を運んだ。
 まず驚いたのが上陸時。台風被害で桟橋の流失が相次ぎ、沖に停泊した船から小舟に乗り換え、波が高い時は「それ、今行け」と放り出される感じで岸壁に飛び移った。島内のアパートまでトンネル通路で雨にぬれずに行くことができ、職員宅には本土でも当時珍しかったテレビや最新のオーディオ機器がそろっていた。「すごいところだなと思った。カルチャーショックだった」と振り返る。
 船の待合時間に趣味のカメラで島内の写真を撮るように。帰りの船が欠航し、泊まることもたびたび。仕事で通う機会がなくなってからも、所属する日本リアリズム写真集団長崎支部のメンバーに声をかけるなどして年数回、島に渡った。

閉山式の会場に向かう鉱員ら=1974年1月15日

 73年9月、炭鉱の運営会社が労働組合に閉山を提案。エネルギー革命により日本各地でヤマの灯が消える中、端島でも閉山のうわさは以前から出ていた。「最後まで見届けよう」。直後に開かれた労組の大会を皮切りに、閉山を巡る島の動きをカメラで追った。
 いや応なく再出発を迫られ、憂いのまなざしを向ける人もいれば、再就職が決まって安堵(あんど)の表情を浮かべる人もいた。島内の体育館であった74年1月15日の閉山式。黒字のまま閉山を迎えたことも理由にあったのか、終了後に会場で記念撮影をする島民らの様子からは「悲壮感というより、学校の卒業式にも似た明るい雰囲気を感じた」。
 だが島が無人となった同年4月まで、桟橋では別れを惜しむ光景が日常となった。見送る側も次は見送られる側に。古里がなくなる島民の悲しみがレンズ越しに伝わってきた。
 閉山後も数回、チャーター船などで撮影を続け、撮った端島の写真は約3千枚に上る。昨年12月には県美術館(同市)であった同支部の写真展で端島の歩みを伝える30点を展示した。
 「軍艦島を撮らせていただいたことに恩返しをしたい」。閉山50年を記念した写真展を今年、何らかの形で開けたらと考えている。 

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