『ゴールデンカムイ』にみる原作と映画の関係性 今後の実写化映画の可能性を考える

『週刊ヤングジャンプ』での連載が終了し、アニメシリーズも制作されている人気漫画作品『ゴールデンカムイ』。近年、邦画界において漫画の実写化企画が次々と進行しているなかで、このタイトルもついに実写映画化版の公開に至った。

ここでは、多くの観客に待ち望まれた本作『ゴールデンカムイ』の内容を振り返りながら、どういう性質の作品だったのかといった分析から、漫画の実写映画化企画が目立ってきているなかで、原作と映画の現在の関係や、今後の実写化映画の可能性までを考えていきたい。

舞台は、明治末期の北海道だ。日露戦争で命を投げ出すような凄まじい戦いを繰り広げ、「不死身の杉元」と呼ばれた元軍人・杉元(山﨑賢人)が、アイヌから強奪されたという大量の金塊がどこかに隠されているという情報を得るところから、物語は動き出す。

金塊が隠された場所の手がかりは、複数の脱獄囚の身体に彫られた刺青にあるという。ある事情から大金を必要としていた杉元は、さっそく手がかりの一部を手に入れることに成功するが、森の中で運悪く野生のヒグマの襲撃に遭ってしまう。そんな杉元の命を、すんでのところで助けたのは、アイヌの少女アシリパ(山田杏奈)だった。この運命の出会いをきっかけに、二人は協力して金塊を探し、山分けをする約束を交わすのだった。

一方、その金塊を狙う他の者たちも動き出している。大日本帝国陸軍の鶴見中尉(玉木宏)とともにクーデターを起こし、北海道征服をたくらむ「第七師団」の精鋭たちが、杉元とアシリパの前に立ちはだかる。そして同時に、戊辰戦争で命を落としたと考えられていた、新撰組の土方歳三(舘ひろし)らも金塊を狙うことに。北海道の大地で、それぞれの勢力がそれぞれの目的によって、金塊をめぐる争奪戦を繰り広げるのが、『ゴールデンカムイ』の物語なのだ。

しかし、原作は全31巻にもおよぶ、長大な内容を誇るシリーズ。本作はそれを一つの映画の尺には収めようとはせず、これから本格的に冒険が始まるという、期待を持たせるタイミングで、いったん幕を閉じることになる。今後、観客の反応や興行成績に応じて、続編製作の可否や、何作で物語を締めるかを検討していくことになるのだと思われる。

とはいえ、全体の物語の序盤までしかストーリーが進んでいないため、本作同様に、ある程度原作に忠実に映画が製作されていくとすれば、いったいどこまで描くのか先が見えないという懸念が発生するのも無理はないだろう。これは、実写映画版が先行している『キングダム』シリーズにも共通する悩みだといえよう。逆にいえば、そんなことを心配させるくらいに、本作の全体的なクオリティが高いといえる。原作の大きな魅力となっていた、クセの強い特徴を持ったキャラクターたちが、実写の世界で上手く再現されているのである。

なかでも、玉木宏が演じる鶴見中尉は、意外なキャスティングながらハマり役といえる。異様な雰囲気と圧倒的な存在感を放ちながら、漫画のキャラクターそのものの役になりきっている。また、眞栄田郷敦が演じた第七師団上等兵・尾形については、原作でも印象的な四角い目のフォルムが、見事にメイクで再現されている。このような役づくりや、外見を寄せた仕事を見ていると、いかに本作が、原作の味や雰囲気を実写の世界で成立させようとしているか、強い意図が感じられるところだ。

ほんの2、3年前くらいまでは、SNSなどを中心に、漫画、アニメ作品の実写化企画そのものへの風当たりが強かった。日本では、かなり長い時期にわたって漫画作品の一部ファンなどに、映像化企画全般に対する根強い不信感があり、原作の内容の改変においては、アニメ化企画にすら批判の矛先が向いていた時期もあった。その原因として、安易な企画で映像化作品が作られた例があったことも確かだろう。それは完全に過去の話というわけでもなく、最近も漫画原作者がTVドラマに自作のテーマを曲解されたとして、原作者自身が脚本を書き直すといった事態が起こっている。

しかし、作り手が反発を警戒しているところもあり、原作の魅力を最大限に活かそうとする映像づくりを目指す例が増えてきたことで、風向きは変わってきている。その裏には、編集部や原作者の影響力が増し、その意向が反映されやすくなった事情もあるだろう。また、原作者との協力体制をアピールすることで、原作が持つ本来の意図に反した内容でないことを印象づけるPRも増えている。漫画業界の側としても、映像化作品が高い評価を得ることは相乗的な利益に繋がるので、積極的に協力する例が目立ってきている。

とくに、原作をどれだけ忠実に再現できているかという観客の称賛の声がSNSなどで評判を呼んだり、ネット上でネタとして楽しまれている原作の部分を映画で拾うと、その感想がまたSNSなどで拡散され、宣伝効果を高めることにもなる。だから、原作の再現への注力にも拍車がかかるという部分もある。社会の変化や観客の傾向を踏まえて、漫画原作の実写映画も、変化を遂げていっているのである。

一方で、このような状態になってくると、一本の映画を映画そのものとして楽しもうとする観客にとって、果たしてそれがメリットになるのかという疑問も生まれてくる。原作の魅力を忠実に再現することをひたすらに求めるのなら、そもそも、実写化する意味が希薄になるのではないか。そこまで原作の神聖視が行き過ぎると、もう原作だけを楽しめばいいという話になってくるように思えるのである。

例えば本作公開前に劇中のビジュアルが発表されたとき、「杉元の着用しているマフラーがあまりにきれい過ぎるのではないか」といったような意見が注目を集めた。杉元やアシリパの衣装は、実写世界のリアリティでいえば、日々の生活のなかでそれなりに汚れているのが自然だが、ここではそれよりも、“原作らしい”コミック的な見た目の方が優先されているように思える。

本作で描かれた原作の要素を見ていても、『網走番外地』シリーズや、『用心棒』(1961年)、『八甲田山』(1977年)など、意識的、無意識的にかかわらず、これまでの日本の映画作品を思い出すような描写や展開が非常に多い。その意味で本作は、むしろ邦画作品の側にもっと寄せた方が、真価を発揮したのではないかと思えるところがある。

だが、実写映画ならではといえる点も、もちろん存在する。本作では久保茂昭監督のこだわりにより、北海道でのロケが中心となっている。そのおかげで、スクリーンを観ている側も震えがくるような、極寒を感じられる映像が撮りあげられている。真冬の北海道でのロケは危険だと考えられるが、この実際の雪景色によって、描写の数々に説得力が生まれている点については、実写化した意義が見て取れる部分だといえよう。

また、最初にヒグマが登場する場面の演出は、文句なく素晴らしい。山﨑演じる杉元の背後で、ピントが合っていないぼやけた部分から、次第に巨大な熊が迫ってくる映像は、“杉元が迫り来る危険を意識できていない”というサスペンス効果を劇的に高めるものであり、数々の熊の恐ろしさを描いた既存の映画作品のなかでも、出色といえる瞬間だったといえる。このような、実写映画ならではの表現こそ、本作を真に楽しめるといえる部分なのではないだろうか。

これ以降のストーリーにも、さまざまなポテンシャルが存在する題材だけに、このような工夫ある演出を見せてくれるのであれば、本作の続編も楽しみにしたいところだ。しかし、その際に別の角度から懸念があるのは、アイヌを重要な要素として描いてきた原作漫画の結末について、一部で批判が存在するという事実だ。

アシリパのキャラクターを中心に、“かっこいいアイヌ”が描かれた点についても、漫画『ゴールデンカムイ』は評価されている。実際のアイヌの一部の人々からも、歓迎する声が挙がっているのも確かなことだ。その一方で、アイヌと和人が手を携えていく展開を踏まえて、あらためて作品全体や、現実の状況とのギャップを振り返ったときに、“アイヌが「和人」から民族的に受けてきた被害や差別を矮小化するイメージを植え付ける結果になるのではないか”という趣旨の意見も出てきているのである。

今後、続編が続いていくのだとすれば、このあたりを、とくにアイヌからの批判的な立場を汲み取ったかたちで、より妥当な描き方へと修正していく試みをしてもよいのではないかと思うのである。さまざまな意見が出ているとはいえ、そういうところに耳を傾けることをしなくては、アイヌを尊重しているという立場をとっている作品そのものに矛盾が発生することになるからである。だが果たして、前述したような、原作を最大限にリスペクトし、できるだけ忠実に内容を再現しようとする製作体制で、本当にそのようなことが実現できるのかという疑問も浮かんでくるのだ。

先日、アメリカ先住民役を、アメリカ先住民のルーツを持つ、当事者の俳優たちに演じさせた『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023年)から、リリー・グラッドストーンが、アメリカ先住民として初めてアカデミー賞主演女優賞にノミネートされるというニュースが報じられた。本作にも、アシリパの大叔父の役に、アイヌとしてアイヌ文化を振興する活動をしている秋辺デボがキャスティングされている。少なくともキャスティングに限って言うならば、『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』の快挙に比べると、限定的な施策にとどまっているといえるが、その試み自体は評価すべきだろう。少なくとも、多様性への視点が製作陣に欠落しているわけではないのは確かだ。そうであるならば、映画は映画として、よりアイヌの人々に配慮した方向へと舵を切ることも期待したいところだ。

本作のワンシーンには、言葉が通じなくとも、その奥にある感情を読み取ろうとする描写がある。そのように相手の声に耳を傾け、想像力をはたらかせる先に、本作が到達するべき道があるのではないか。原作は、変えてはならない聖典ではない。後の作品がストーリーに変化を与えられるチャンスがあるのであれば、映画『ゴールデンカムイ』を、原作を乗り越えた、さらに高次元の作品へと、映画が書き変えていくこともできるはずである。それは難しい道かもしれないが、そのような新たな試みがあってこそ、「映画実写化に真の意義があった」と、心から言えるのではないだろうか。

※アシリパの「リ」は小文字が正式表記。

(文=小野寺系)

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