高2で突然脳出血で倒れ、言葉を失った少年 現在20歳の青年が、家族と協力し歩けるようになるまで

脳出血というと、中高年の方にみられる病気だと思われがちですが、若い世代であっても発症する可能性は0ではありません。

佐川陸さんは現在20歳。高校2年生のときに突然の脳出血により倒れました。陸さんのお父さん(@sagawa_koji)は、Instagram上で陸さんの発症から現在までの様子について発信しています。

今回は、お父さんに発症時の様子やSNSでの発信について話を聞きました。

直前には母とも会話をしていた

入院しているときの陸さん(@sagawa_kojiさんより提供)

小さい頃から頭痛持ちだった陸さん。発症1年前の高校1年生の時、自転車で登校中に激しい頭痛に襲われ、帰宅してきたことがありました。その際、掛かりつけ医に診てもらったものの「偏頭痛」ということで痛み止めをもらって終わったといいます。

「年齢的にも精密検査(MRI)をするという発想にならなかったのだと思います。倒れたときは直前に母と会話もしているので、突然の血管破裂だったのかと。もし、2階の自室で発症していたら気づくのが遅れ、間違いなく命を落としていたと思います」

原因は10万人に1人(※)とされる先天的な脳血管の奇形(脳動静脈奇形)が破裂したことでした。

“命だけは繋いでほしい”その一心だった

倒れた後、ICUで多くのパイプに繋がれた陸さんの姿をみて「生きろ!絶対に諦めるな!」という言葉が自然に出たというお父さん。どんな状態になったとしても命だけは繋いでほしいという一心でした。

「発症日、病院から必要物品リストをもらい、帰り道にドラッグストアでとうに卒業したはずのオムツを大量に買いました。昨日まで元気な高校生が一夜にして生死を彷徨う急転直下状況に、オムツの陳列棚の風景は、色も味もない世界だったことを覚えています」

しかし、自宅に戻ったあとは「今できること、すべきことは何か」という思考に。
「“前向きに生きるという選択肢しかない”と自分に言い聞かせていたのかもしれません。すぐに脳の回復に関する本やリハビリの本をネットで注文し、担任の先生に連絡して、陸に聞かせるためのメッセージ動画をクラスメイトに送ってもらいたいとお願いしました。なかなか意識が戻らず、発話もなく無反応だった3ヶ月間、陸の耳元で『絶対食べられるようになる』『絶対喋れるようになる』『絶対歩けるようになる』『陸の可能性は無限大』と言い続けました」

初期の回復が遅かっただけに、重度の後遺症が残ることを覚悟していたお父さん。一番恐れていたのは陸さんが自身の状態を認識したときに、その状態を受容できるか、という点でした。

「自分自身が不安に陥りそうなときは『落ち込む資格を有するのは陸だけ』と言い聞かせ、とにかく前向きな言葉を掛け続けました。その頃、強く抱いた感情が『どんな些細なことでもいいので、夢や目標を共有し、それに向けて全力でサポートできる日が来てほしい』という思いでした。そのため、意思疎通ができ、色んな目標を掲げて一緒に挑戦できるところまで回復してくれた今の陸には感謝の気持ちしかありません」

現在は、陸さんが少しでも「今」を楽しむことができる環境づくりや、障がいを強みに変えて活躍できる場を探すことが、自分の役割だと感じているようです。

リハビリの様子を発信する理由

リハビリの様子を発信しているお父さん。その理由は3つありました。

陸さんが脳出血を発症し意識がなかった頃、とにかく若年層で長期の意識障害に陥っている事例の情報が欲しかったといいます。
「一生寝たきりで意識が戻らないままなのか、戻ったとしてどの程度まで回復するのか。些細な情報でもよかったのですが探すことができませんでした」

必死で情報を漁っていたというお父さん。今後同じ境遇の方や、その家族にとって、陸さんの事例が何かしらの参考となり、立ち向かう力になればと思い発信を始めたといいます。

Instagramを使ったのはこのときが初めて。
フォロワー0人からのスタートだったものの、2、3ヶ月後には家族が急に脳出血で倒れ意識がないという同じ境遇の方から連絡をもらうことが増えました。
「陸の姿に希望を持てたというメッセージは、陸にとってもエネルギーになっているようです」

また、発信の目的の一つに「佐川陸」という存在が、世間から忘れ去られてしまわないように、との気持ちもあったといいます。

「自発的にコミュニケーションをとることが苦手になってしまった陸は、どうしても閉じこもりがちになってしまいます。発信することで外の世界と繋がり、様々な出会いを通じて未来を切り拓くきっかけになればと思っています」

そして、病気について一人でも多くの人に“知ってもらいたい”という思いがあります。

「失語症や高次脳機能障害は認知度自体が低く、どんな症状かも理解しづらいと思います。投稿を通じて『こんな障がいもあるんだ』と関心をもってもらうことが第一歩だと感じています。それにはリアリティこそが必要だと感じ、陸とも相談のうえ悩みましたが、顔出し・名前だしで投稿することにしました」

現在の症状について

倒れてから右半身麻痺や失語症、記憶障がいなどの高次脳機能障害が残ったという陸さん。麻痺については、陸さんの場合、右上肢は発症から3年半経った今もほとんど動かせないといいます。

「陸は右腕・右手の存在が意識下にないのか、頻繁に物や人に当ててしまっています。生活はすべて左手だけで行っており、もともと左利きだったことは不幸中の幸いでした」

「右下肢は、発症132日目にして初めて神経回路が繋がり(脳の可塑性)、踏み込む力が出ました。しかし、寝たきり状態が長かったため、足首が内反・尖足(内側に捻り、かつ指先に向けて伸びた状態)で固まっていました。発症から1年以上経ち、アキレス腱延長の手術により床に足裏を付けられるようになってから徐々に歩行訓練ができはじめ、今では、床がフラットな場所であれば、安定した杖歩行ができるようになりました」

また、そのほかにも右半身麻痺の影響として、右視野欠損や右での咀嚼が困難です。

「陸が社会で生きていくために、最大の試練となっている後遺症」と話す“高次脳機能障害”については、一般的に「見えない障害」ともいわれ、まだまだ社会的認知は低いといいます。

陸さんの場合、右半身麻痺よりも高次脳機能障害のほうが圧倒的に生活を困難なものにしているとのこと。

「高次脳機能障害は脳の一部が損傷し、思考・記憶・行為・言語・注意などの脳機能に障害が残る状態です。陸は性格自体、素直で穏やかに変わったほか、思考力、理解力等が圧倒的に落ちてしまいました」

また、失語症により、ひらがな、カタカナ、漢字、数字、アルファベットなど、ごく当たり前の言語能力がすべて失われてしまいました。

「発症から2年半程で、徐々にひらがなが使えるようになりました。現在、ひらがなと数字に関しては、30文字程度の一文を読むのに1分程かかります。ただし、カタカナ、漢字、アルファベットはまだまだ読めません。文字を忘れるっていうのは想像もつかない世界です」

一方で言葉を耳で聞いての理解と、発話は少しずつ回復しており、簡単な日常会話はできるようになってきているとのこと。

記憶障害については、発症前の出来事や人はしっかりと覚えているものの、発症後の新しい出来事は脳にストックできても、上手く脳から引き出せない状態だといいます。今日何を食べたか、学校でどんなことをしたかなど思い出すことができません。

「5ヶ月間入院していた病院で外出許可をもらった際、帰りの車内でどこに行っていたか忘れていただけでなく、病院に戻っても『この場所は知らない』と反応をしたのには驚きました。人のことは覚えているので、スタッフの方と顔を合わせて、やっと病院のことを認識できたようでした。これも失語症と同様、近くにいてもどんな状態なのか想像すらつきません」

18歳でリハビリを兼ねて編入した特別支援学校では、「何にも覚えてないんよ。学校行っても意味がない」と頻繁に落ち込んでいたという陸さん。それからは都度写真に撮ったり、スマホにメモしたりして出来事を記録しています。後から見返すことで記憶が想起され、一連の出来事を思い出すことができるそう。

さらに、地誌的障害もあり、今いる場所がどの辺なのか理解が困難です。
「頻繁に通うショッピングモールでも売り場の場所が覚えられないので、仮に一人で歩けるようになっても単独での外出には相当高いハードルがありそうです」

脳出血から1年半後(@sagawa_kojiさんより提供)

座るリハビリから始め…

倒れて4日目に目を開けたものの、意識はなく視点が宙を舞っている状態が2ヶ月ほど続きました。その間は、リクライニング式の車椅子に座り、重力に逆らわせるだけのリハビリから、2~3人で支えながら無理やり立たせたりしていたとのこと。

地道に歩く練習を重ね、今ではフラットな場所であれば、安定した杖歩行が可能なまでに。「今年の目標として、家の中と支援学校での脱車椅子を掲げています」と話すお父さん。

次にタンデム自転車によるリハビリです。発症から1年9ヶ月後、イベントでタンデム自転車に乗ったとき、陸さんとタンデム自転車で、しまなみ海道サイクリングロードを70km縦走するという目標を掲げたお父さん。

自宅のエアロバイクでリハビリを重ね、昨年9月、一泊二日の行程でしまなみ海道縦走を達成しました。「タンデム自転車は重量もあり、陸は手足を固定していることから転倒時のリスクが大きく、重度の片麻痺での挑戦としては、あまり類例がないかもしれません。陸にとっても大きな自信に繋がった出来事でした」

食べるリハビリについては「植物状態のように意識障害が重かった間は、唾液を呑み込むことも、口を動かすこともできなかったです。顎回りの筋肉をほぐしたり、ガーゼで包んだグミを噛ませて唾液を呑ませたりする練習をしました。発症から3ヶ月後、はじめてヨーグルトを食べることができました。今では、食べるのに時間がかかりますが、普通の食事がとれています」

高次脳機能障害・失語症のリハビリについては、発症3ヶ月頃から脳機能のベースとなる注意障害の改善を図るための簡単な脳トレから始まりました。積み木で図示された形を作ったり、8ピースほどの幼児向けパズル、簡単な迷路などを行いました。

失語症に関しては、物の名前を忘れていたため、イラストが描かれたカードを見ながら名前を答える練習や、ひらがなを覚える練習をしました。

現在はスマホのフリック入力でひらがなを打ち、文章を作ることができるまでに。ことあるごとにメモに出来事を打ち込んで記録を残し、毎晩それをノートに書き写すなど日記をつけることで文字の訓練をしているそう。また、Instagramのストーリーも自分であげているのだとか。

1段ずるなら安定してきた様子(@sagawa_kojiさんより提供)

リハビリを頑張るモチベーション

「障がいが残ったこと自体は不便だけど不幸だとは思っていない」と言う陸さん。お父さんはそんな前向きな陸さんの姿に助けられているようです。

「意識のなかった頃から『陸にしかできないこと、伝えられないことがある』と言い続けてきました。陸もその考えに同調し『リハビリを頑張る姿や目標にチャレンジすることが、同じような方々の力になれば凄く嬉しい』と言い『もっと喋れるようになって講演活動をしたい』という目標ももっています。また、年に1回、全国から当事者の方々が集まるイベント『脳卒中フェスティバル』に参加することが陸にとって最大の楽しみとのことです。これまで2回参加していますが『毎年、少しでも元気になった姿を主催者やInstagramで繋がった方々に見せたい』との気持ちがあり、これらがリハビリのモチベーションになっていると思います」

目標を掲げることで、前向きにリハビリを続けることができているようです。

一段飛ばしもできるように(@sagawa_kojiさんより提供)

陸さんの夢

陸さんには、ホノルルマラソンに挑戦という目標があります。発症する前、陸さんの母親は年に4~5回フルマラソンに出るほどマラソン好きでした。しかし、入院の付き添いや介助生活のためすっかり遠のいてしまいました。

杖で歩く練習をする陸さん(@sagawa_kojiさんより提供)

陸さんが少しずつ歩けるようになり、母親の夢でもあったホノルルマラソンに一緒に出られたらいいね、と冗談半分で話していたといいます。そんな中、同じく10代で脳出血により半身麻痺を抱える女性が、時間制限なしの10kmコースに出場し、毎年タイムを縮めている姿を発見。昨年、タンデム自転車で大きな目標を達成したこともあり、陸さんのなかでは「次の目標はホノルルマラソン」と決まったようです。

「これまでと違ってスケールの大きい目標のため、本人のリハビリの努力もさることながら、様々な課題をクリアし、早い段階で挑戦の舞台を用意してあげたいです」とお父さんも意気込みを語りました。

最後に、同じように麻痺や失語症がある方たちや、それが身近ではない人たちに伝えたいメッセージについて聞きました。

「“可能性は無限大”です。これは、年齢、性別、障がいの有無にかかわらず、陸だからこそ伝えられるメッセージだと思っています。我が家でいう『可能性とは』決して『発症前の陸の状態に戻る』ということを意味しているものではありません。重度の障がいがあったとしても、今の陸には誰しもと同じく、目の前にはあらゆる選択肢と可能性が無限に広がっています。そして、可能性を広げてくれるのは、内面的な部分では『明確な目標を持つこと』。外面的な部分では『人との繋がり』に尽きると思っています。我が家もそうでしたが、自分たちの力だけでは乗り越えることはできない困難も、本当に多くの人との出会いに恵まれ、応援や協力をいただきながらここまできました。『人との繋がり』を大切に、地道に『目標』に向かって進んでいけば、その都度、違った景色が見えてくると信じています」

「可能性は無限大」と、大きな目標を掲げながら日々前に進む陸さん。支えるご家族とともに、夢を叶えてほしいと願います。

【参考資料】
聖路加国際病院『脳動静脈奇形』

ほ・とせなNEWS編集部

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