「あらゆる場面で意識する存在」三谷幸喜、ジェームズ・サーバーからの影響と『世界で最後の花』の魅力

■ジェームズ・サーバーは、なぜ三谷幸喜に影響を与え続けるのか

アメリカの雑誌『ザ・ニューヨーカー』の編集者であり、漫画家やライターとしても活躍したジェームズ・サーバー。作家としても『虹をつかむ男』や『サーバーのイヌ・いぬ・犬』など数々の代表作を残し、1961年に亡くなってから半世紀以上経った現在でも高い人気を誇っている。

そんなジェームズ・サーバーが1939年の第二次世界大戦開戦時に描いた世界的ロングセラーである絵本『世界で最後の花』(ポプラ社)が村上春樹氏の新訳によって登場し話題を集めている。

今回ジェームズ・サーバーの「大のファンであり大きな影響を受けている」と公言する三谷幸喜氏にインタビュー。『世界で最後の花』とともに、サーバーの魅力について語っていただいた。

――三谷さんにとって、ジェームズ・サーバーは特別な作家だとうかがいました。出会いは大学時代だったとか。

三谷:もともとミステリーが好きで、コナン・ドイルからアガサ・クリスティーやエラリー・クイーンなどを読みあさっているうちに「奇妙な味」というジャンルに辿りつきまして。江戸川乱歩の提唱した、ホラーともミステリーともつかない何とも言えない後味を残す小説のことなんですが、だんだん謎解きよりも独特な世界観を構築した小説に興味が惹かれるようになったんですね。「奇妙な味」の作家たちを集めた『異色作家短篇集』(早川書房)というのがあって、その中にサーバーの『虹をつかむ男』もあったんです(※)。

※現在はサーバーの独立短編集『虹をつかむ男』(ハヤカワepi文庫)で読むことができる。

――2014年に『LIFE!』というタイトルで映画化された作品ですね。恐妻家の男の空想癖を描いた短編小説です。

三谷:僕にとっては最初の映画化1947年のダニー・ケイ主演「虹を掴む男」の原作というイメージですね。これでハマってしまって、他の作品も読みはじめたんです。だけどほぼ絶版なんですよ、サーバーの作品って。日本で刊行された作品は全部集めたくて、古本屋をあちこちめぐりました。「ジョセフィーヌ、生涯最良の日を迎える」という短編が僕は一番のお気に入り。飼い犬を人にあげちゃったあと、初めてその大切さを知った夫婦が、その犬を返してもらいにいくと、あげた人もよそにあげちゃってて……というサーバーにしては珍しくストーリー性のあるお話。サーバーは大の犬好きで、犬にまつわる短編やエッセイをいっぱい書いているんですよ。

――生涯で40匹以上と暮らしたほどの犬好きだったそうですね。『サーバーのイヌ・いぬ・犬』という短編集(※絶版)も出ています。

三谷:僕も犬好きだから、親近感がわきました。作品を読んでいると、だんだんサーバーの人となりがわかってくるんですよ。すごくシャイでシニカルな人だったんだろうなあとか。舞台の仕事もしていたし、役者をしたことがあるみたいだし、僕と共通するところが多いんですよね。しかも亡くなられたのが1961年。なんと僕が生まれた年だったから、これはもう生まれ変わりなんじゃないかと思ったんだけど、残念ながら彼が亡くなったのは11月で、僕が生まれたのは7月。

――それはちょっと、がっかりしますね。

三谷:でも、それくらいの気持ちではいるというか。サーバーと同じで僕も絵を描くのも好きだから、彼のタッチに寄せてみたこともあります。いつだったか、ニューヨークのブロードウェイにお芝居を見に行ったとき、ザ・アルゴンキン・ホテルに泊まったんです。そのホテルはサーバーが頻繁に利用していて「ジェームズ・サーバールーム」というのがあったんです部屋中にサーバーの絵が飾ってあってね。

――そこに泊まったんですか。

三谷:一週間くらい、滞在したと思う。そのときブロードウェイで観たのが、ミュージカルの『キャバレー』。エロスとグロさが混在したデカダンな雰囲気にあてられて、具合が悪くなっちゃってね。意識を失うほどじゃないけど、倒れて、立てなくなっちゃった。それから三日間くらいずっとホテルで寝ていました。でも、せっかくのニューヨークでサーバールームでしょう。寝ているしかないなんてもったないと、芝居のプロットを考えていたら、一気に三本くらい生まれた。『温水夫妻』と『マトリョーシカ』と『竜馬の妻とその夫と愛人』。サーバー先生のおかげだって思いました。だから、そのときに買ったサーバーの絵のTシャツは海外旅行するときは必ず持っていくし、お守りみたいに大事にしている。

――作品づくりに影響を受けた、というより、サーバーという存在じたいが三谷さんの血肉になっているんですね。

三谷:そうですね。サーバーのもっているユーモアとあたたかさ、そしてシニカルさの配分みたいなものは、エッセイにせよ物語にせよ何かを書くときにはお手本にしています。人を食ったような笑いなんだけど、どこかに暖かさがあるし、辛辣なようで、それだけでもない。そのさじ加減が絶妙なんです。

――そのなかで、昨年末に新訳が刊行された『世界で最後の花』はどちらかというとストレートに戦争の痛ましさ、人間の愚かさを描いた作品です。

三谷:僕も、最初に読んだときは驚きました。何事にも斜に構えた姿勢で、ストレートにものを言うことはなく、オブラートに包んで表現する方だというイメージだったので。根っこには明るくてあたたかいものも流れているんだけど、基本的に、偏屈なんですよね。でも、そういう人だがストレートにテーマを突きつけられたときにしか生まれない、凄味のようなものを感じました。

――三谷さんも、オブラートに包むところとストレートに言うところの切り替えは意識していますか?

三谷:僕は毎回、オブラートに包み過ぎているくらいで、ストレートにテーマを掲げたことは一度もないですね。サーバーも、本来はそういう作風だったはずなんです。でも、そういうものをすべて捨てて真正面から取り組まなきゃいけないときがある、と描かれたのが『世界で最後の花』なんじゃないでしょうか。僕にもそういうときがいつかくるのかもしれないけれど……わからないですね、今はまだ。

――村上春樹さんの新訳はいかがでしたか。

三谷:まず、どうして僕に訳を依頼してくれなかったのかと(笑)。それはさておき、誰にでもわかる平易な言葉で、しかし決して言葉足らずにはならない表現で、サーバーの想いを汲みとって訳してくださったことに感謝しています。何より、リズムがいいですよね。原文を生かしているんでしょうけれど、最後の数ページは口ずさむだけで心地がいい。戦争の悲惨さを伝えるものだから、内容的には決して心地いいものではないんだけれど、くりかえしページをめくらずにはいられなかった。

――言葉だけでなく、絵の線もシンプルで、より心を打たれました。

三谷:独特のタッチですよね。すごく好きです。たぶん、この絵じゃなかったら作品の印象もずいぶん変わっていただろうな。

――公演中の舞台『オデッサ』はアメリカが舞台ですが、ウクライナの都市の名前でもありますよね。ストレートにテーマを掲げたことはない、とのことでしたが、言葉や文化背景による人のすれ違いなど、時勢に照らして描きたいと思われたものもあったんでしょうか。

三谷:ごめんなさいね、全然そんなことは考えていないんです。出発点は、宮澤エマさんと迫田孝也さんの出演が決まったこと。宮澤さんはアメリカ出身のお父さんの影響で英語がペラペラ。そして迫田さんは鹿児島出身で、大河ドラマの薩摩弁指導をされるくらい鹿児島弁がペラペラなんですよ。だったら、英語と薩摩弁が入り乱れるようなお話にしようと。

――その設定だけでおもしろそうですね。

三谷:でしょう。じゃあ舞台はどこにするかと考えて、アメリカの片田舎がいいと思いつき、テキサスで印象的な名前の町を探していたら、オデッサに行き当たったというだけ。オデッサはかつて鉄道を敷くために移民労働者を大勢受け入れていて、そのなかにいたロシアの方が「ウクライナのオデッサに風景が似ている」ということで名づけられたそうです。でも、物語そのものは戦争とも関係はないですね。

――深読みしてしまいました。『オデッサ』のなかにも、三谷さんの中のサーバーイズムは流れているんでしょうか。

三谷:『オデッサ』に限らず、僕の作品には全てサーバーイズムが流れています。そもそも老後の理想は、サーバーのような偏屈なおじいさんになることですから。のらりくらりと視点をずらしながら物事を見て、自分なりに解釈しながらユーモアをまじえて語れる、そんな年寄りになりたい。『ニュースキャスター』に出ているときも、理想はそれです、難しいけど。ただ、サーバーの短編なんかを読んでいると、この人はオブラートに包んだふりをして、実は何も考えていないんじゃないかと思うときもある。深読みしたければ勝手にどうぞ、みたいな。案外そっちが正しいんじゃないかな。

――三谷さんが、オデッサという町を、たまたま響きのよさで見つけたように。

三谷:本来は、サーバーに裏の意味なんて探っちゃいけないような気がするんですよね。皮肉屋の作家が見たニューヨーカーたちの生態を、冷静に突き放して描く。そこに自然とユーモアが浮かび上がる。それ以上でもそれ以下でもない。それがサーバーの正しい読み方なんじゃないか。だからこそ、繰り返しになりますけれど、『世界で最後の花』のようにメッセージ性の強いものを描いたときに、逆に凄まじいパワーが生まれるのかもしれないけど。

――今も世界中で戦禍が絶えないなか、あらためてサーバーの絵本が見直されているように、芸術を通じてできることはあると思いますか。

三谷:難しい問題ですね。もちろん僕にだって主義や主張はあるんだけれど、僕の場合、それを伝えるための道具として映画やドラマ、舞台を利用したくないんです。もし本当に僕が世の中を変えるために何かしようと決めたら、自分の口でしゃべると思う。作品で何かを訴えることはあんまりしたくないんですよね。僕が作品を通じてできるのは、守らなければならないものが守られなくなっている人、守るために頑張っている人たちがほんのちょっと息抜きできるための場をつくることなのかな、と。裏を返せば、それ以上のことはたぶん僕にはできないだろうな、と思います。ふだんはあんまり、そういうことすら意識していませんけどね。

――「笑う」って大事だなと三谷さんの作品を観ていると思います。つらいことが続くと、どうしても「考える」ことができなくなって、文章を読むことすらしんどい、というときに、三谷さんのドラマや映画を観ているだけでほっとする、ということがありました。

三谷:長く仕事をしてきたなかで、執筆に行き詰まることも何回かあって。来週オンエアされるドラマの脚本がまだできていない、この責任をどうとればいいのか、もう自ら命を絶つしかないんじゃないかと本気で思うくらい追い詰められたこともあります。書けないときって、本当に書けないんですよ。ホテルに泊まって徹夜で向き合っているのに、朝になっても一行も書けていない。絶望なんて言葉じゃ言い表せないような気持ちの時に、たまたまテレビをつけたら『Mr.ビーン』が放送されていたんです。僕はその時、初めて見たんですよ。

三谷:たぶん、オンエアが始まったばかりの頃じゃないかな。それがもう、おかしくておかしくて。笑っているうちに、どん底の気持ちにほんの少し光が差しこんだ。そういう経験を何度かくりかえすなかで「笑いの持つ力はすごい。人を変えるし、助けてくれることもあるんだ」と感じています。僕の作品で誰かの人生を変えたいとまでは思っていないけれど、ほんのちょっと背中を押してあげるとか、小さな助けになることくらいはできるんじゃないかな、と。

――それは、先ほどおっしゃっていた「オブラートに包む」表現だからこそ、という気もします。自分で考える余地というか、余韻を残してくださるから、観る側が勝手に解釈して、励まされる。

三谷:余白は大事ですよね。『世界で最後の花』も、絵や文章で描かれていない部分に、大事なことが詰まっているというか、いろいろ考えさせてくれる技術があるような気がする。色もほとんどついていないから、それすら想像させられるし。ただ、こうして僕らが作品について語り合う事すら、サーバー自身は素直に受け取ってくれない気がするな。「こんなの五分で描いたもんだ」とか「何も覚えてないね」とか言いそうだな、って。僕のイメージですけどね(笑)。あんまり作品について語りすぎるのは野暮だという気もする。

――読者としては、深読みしたくなっちゃいますけど。

三谷:さらっと何度も読み返せばいいと思います。先ほども言いましたけど、実はそこまで考えて描いていない可能性が高いから。僕だってそうなんですよ。『鎌倉殿の13人』が放送されていたとき、SNSでは多くの人が考察してくれていたけど、正直、脚本家は先に進むことで頭がいっぱいで、みなさんが思うほど細かく考えていたわけじゃなかった。考察を読みながら「そういう考え方もあるのか、おもしろいな」とか「みんなが予想しているからこの展開はやめておこう」とか考えることもあったくらい。

――そんなことが(笑)。

三谷:ただ、自分でも思ってもいなかったところで史実とリンクしていたり、思わぬ伏線を拾えたりすることはあって。作者だからといって物語のすべてを把握していると思うのは驕りなんだ、という気がしています。目に見えぬ場所に物語の完成形がすでに存在していて、僕はそれを形にするため誰かに書かされているんじゃないのかな、と。舞台の場合、稽古をしているときに、初めてセリフの意味がわかるときもある。「このセリフはAさんに向けたつもりで書いたけど、実はそのときうしろにいたBさんに向けたものだったんだな」とか。

ものをつくる人間が全員そうだとは言わないけれど、自分が書いているものの意図を理解しきらないまま、なにかに突き動かされるように書いている作家もいる。ひょっとしたらサーバーもそうかもしれない。だからこれ以上、この絵本の深読みは僕はしたくない。したくないけど、皆さんはそれじゃ納得しない。だんだんそんな気がしてきた。というわけであえてこじつけますけど、『鎌倉殿の13人』を書いていても思ったけれど、戦争が好きな人って、やっぱりいないんですよ。

――戦国時代に生きていても。

三谷:鎌倉時代もそうだし、戦国時代もそうだと思う。もちろん今みたいな平和の観念はなかったと思うけど、基本的にいつの時代だって人は刺されたら痛いし、戦うのは怖い。負けるかもしれない不安のなか、それでも戦わなきゃいけないのは、他に道がないから。そう考えると不思議な気持ちになりますね。本音の部分で戦争を望んでいないのなら、何か手の打ちようはあるだろうという気もする。俺は人を殺すのがたまらなく好きなんだって危険な人たちが大暴れしているんなら別だけど、大半はそうじゃないわけで。ほとんどの人がやりたくないと思っているのに、戦争はなくならない。

でも回避する道はきっとあるはずなんです。難しいかもしれないけど、必ずある。だからどんな局面においても、その道を探ることから逃げてはいけないんじゃないかなと思いますね。「戦争は必ず起きるもの。人は戦うことをやめられない動物である」なんて結論を出してしまっては、何も生まれない。

――まさに『世界で最後の花』はその道を探るための問いかけがなされている気がします。

三谷:今あなたが悩んでいる悩みは、人類で最初の悩みではなく、同じ悩みを持つ人が絶対過去にもいたんだ、というようなセリフをミュージカル『日本の歴史』でも『鎌倉殿の13人』でも書きました。それと同じで、太古の時代から戦争が繰り返されていることに、今一度立ち戻って考えなくてはならない、とこの絵本は言っている気がします。

歴史のなかに必ず答えがあるからそれを模索しなさい、って。でもね、本来はもっとシンプルに、サーバーならではのリズムのいい文章と独特なタッチの絵を楽しめばいいんじゃないのかな、そんな気がします。あんまり深読みすると、サーバーさんに叱られますよ、きっと。ごめんなさいね、サーバーさん。

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