【連載】『令和5年度卒業記念特集』第3回 齋藤正貴/野球

想像以上の4年間

『一生の宝物』。齋藤正貴(商4=千葉・佐倉)は野球部での4年間を一言でこう表した。県立高校出身のサウスポーは3年時に開幕投手を任せられるも、思うような結果を残せず挫折を味わった。4年時は中継ぎとして悔しい思いをしながら、最後は抑えとしてチームを支えた。そんな酸いも甘いも経験した齋藤正の野球人生を振り返る。

葉の県立高校である佐倉高校出身の齋藤正は、高校時代は大学でも競技を続けるか迷っていた。しかし、早慶戦を見て中学生のときから憧れを抱いていた早大への進学し、野球を続けることを決意。早大野球部に入部する前には、高校の野球部の監督から「4年間続けるだけでもすごい」と言われたという。齋藤正自身も、野球部で4年間やり切る、公式戦に登板するという2つの目標を掲げ、ワセダのユニホームに袖を通した。

1年時は肘をけがしていたためほとんどボールを投げることができず、データ班として活動するなど、チームの裏方として働いていた部分が大きかった。そのため、周りから置いていかれるという焦りが生まれた。しかし、2年時の夏頃に、治療を続けていたものの良くならなかった肘の痛みが、幸運にも急に消え去った。ここから齋藤正の下剋上が始まる。2年時の東京六大学秋季リーグ戦(秋季リーグ戦)では、待望の神宮のマウンドに上がり、公式戦デビューを果たした。登板3試合目では、勝利投手も経験することに。公式戦に登板するという目標を、早くも達成することとなった。

2年時、秋季明大1回戦に登板した齋藤正。この試合で公式戦初勝利を飾った

3年時の春季オープン戦で好投を続け、先発の経験を積むと、東京六大学春季リーグ戦の開幕投手に抜てきされた。素直にうれしい気持ちと、オープン戦中から発症した肩の痛みへの不安な気持ちが入り混じる中、開幕戦に臨んだ。しかし、結果は4失点を喫し、敗戦投手に。その後も3試合に先発するも、チームを勝利に導く投球をすることはできなかった。ここから登板機会はなく、シーズンを終えた。「全くチームの戦力になれていないのは本当に申し訳なかったし、本当に悔しい気持ちでいっぱいだった」と、4年間で一番辛かったという時期を振り返る。「このままではダメだと思った」と、練習から投球フォームまですべてを見つめ直し、最後は「やるしかない」と、気持ちで乗り越えた。3年の秋季リーグ戦では、中継ぎに配置転換される。先発への思いもあったが、与えられた役割でチームに貢献しようと前向きに考えた。

迎えた最終学年。中継ぎに定着し、ブルペン陣を引っ張る齋藤正は重要な場面を投げるようになる。開幕から6試合連続無失点だったが、4回戦までもつれ込んだ法大戦で逆転本塁打を浴びてしまう。そのまま早大は勝ち点を落とし、優勝戦線から離脱した。この悔しさを胸に、夏場は投球の引き出しや内角への攻めの投球に重点を置き、練習に励んだ。4年間の集大成となる秋季リーグ戦では、ついに抑えを任される。惜しくも優勝することは叶わなかったが、齋藤正はシーズン通して得点を許さない投球で有終の美を飾り、大学4年間の野球生活の幕を閉じた。

4年時、秋季法大1回戦で打者を抑えほえる齋藤正

入部当初、「4年生の最後くらいにリーグ戦に出られればいいや」と思っていた齋藤正にとって、野球部での4年間は全く思い描いていなかったものだった。一番の目標であった「4年間やり切る」の達成には、かけがえのない同期の存在が大きく、「本当にこの同期のみんなで良かった」と振り返る。大学で野球人生に区切りをつけるという齋藤正。「目標を達成できたことを自信にして、これから社会に出てどんな壁に当たっても立ち向かっていきたい」と、今後に向けて意気込んだ。『一生の宝物』となった早大野球部での4年間は、齋藤正の大きな財産となり、これからの人生に必ず生きていくだろう。

(記事 沼澤泰平、写真 高橋優輔氏、近藤翔太)

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