日本のバレンタイン文化誕生のきっかけは、あの「メリーチョコレート」だった!?創業75年の歴史に迫る

創業70年以上の老舗ブランドであり、バレンタインギフトの定番である「メリーチョコレート」。日本で生まれ育った人なら、誰もが一度は目にしたことがあるはず。そんな「メリーチョコレート」ですが、日本で初めてパリのサロン・デュ・ショコラに参加した企業であり、バレンタインを日本に広めた(※諸説あり)ブランドであり、まさに日本のチョコレート文化の立役者なんです。

今回は、そんな「メリーチョコレート」の歴史について、広報の小林さんにお話をお聞きしました。

1950年創業。たった3人の共同会社としてスタート

「メリーチョコレート」の創業は1950年(昭和25年)。お菓子の製造・販売に携わっていた原 堅太郎氏が、東京都渋谷区の小さな作業場からチョコレート会社をスタート。当時はたった3人の共同会社だったのだとか。

渋谷工場

1955年に発売した「クリーミー」(ソフトキャラメル)が初のヒット商品に。1956年には工場を同じ渋谷区内の鶯谷町へ移転し、順調に売り上げをアップしていきます。さらに現在の拠点・大森に移転したのは、「アーモンドスカッチ」をヒットさせた後の1969年のこと。

板チョコがたった3枚しか売れず…。日本で初めてのバレンタインフェア

諸説ありますが、「メリーチョコレート」は、日本にバレンタインをもたらした企業のひとつ。きっかけは、メリーチョコレートの社員がパリに住む友人から受け取った一通の絵葉書。

そこには「パリでは2月14日にバレンタインデーといって、花やカード、チョコレートを贈る習慣がある」と書かれていたのだとか。これをチョコレート販売に結び付けられないかと考え、1958年、都内百貨店で初のバレンタインフェアを行ったのだとか。

とはいえ、当時日本でバレンタインを知る人はおらず、初回の売り上げは板チョコレートが3枚、カードが1枚という結果だったのだとか。その後、他のチョコレート会社もバレンタイン市場に参入し、徐々にバレンタインの知名度はあがっていきました。

さらに、手作りチョコレートブームに火をつけたのも「メリーチョコレート」。1977年に日本ではじめてチョコレート教室を開講したのだそう。当時は入門、中級などクラス分けがなされていたのだそう。

日本の企業で初めてパリのサロン・デュ・ショコラに出展

2000年、「サロン・デュ・ショコラ」(パリ)出展の様子

さらに2000年、世界のチョコレートの祭典「サロン・デュ・ショコラ」(パリ)に出店。日本企業として、さらにヨーロッパ以外のブランドの出展は初だったのだそう!

「日本のチョコレートが、世界でどう受け入れられるのか?」という想いで出展したところ、抹茶のガナッシュが大ヒット。当時はまだ日本の素材を使ったチョコレートは世界に普及しておらず、とてもセンセーショナルだったのだとか。

さらに「メリーチョコレート」は、現在も海外へのチャレンジが止まりません。2022年、国際的なチョコレートコンクール「インターナショナルチョコレートアワード」では、「セゾン ド セツコ」のボンボンショコラが金賞など多数の賞を受賞しています。【「セゾン ド セツコ」の記事はこちら】

「メリーチョコレート」といえば、女の子の横顔。実は切り絵師の手作り!

切り絵の原本を撮影させてもらいました!

「メリーチョコレート」の名前と少女の横顔のロゴは、西洋の映画によく出てくる少女の名前「メリー」から発想を得たのだとか。創業者・原 堅太郎氏が「日本はますます欧米文化を取り入れた国際的な国になる」と考え、西洋風の名前をつけたいと思っていたのだそう。

ロゴの変遷。マイナーチェンジしつつも、原形は同じ!

西洋の女の子の横顔をイメージしたロゴは手書きではなく、実はフランスの切り絵師が作ったもの。ロゴがブラッシュアップされるたびに作ってもらっているのだとか。

ロゴマークは創業当時から少しずつ変化していて、現在は創業当時よりも鼻が高く、洗練された印象になっています。

創業から約70周年もの歳月を乗り越え、日本のチョコレートブランドの定番であり続ける「メリーチョコレート」。小さな町工場から始まったお菓子屋さんの挑戦は、100周年に向けてまだまだ続いていきます。

ウフ。

ウフ。編集部スタッフ

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