江戸時代の下級武士、どんな生活を送っていたのかーー肉食文化と意外な日常

国立科学博物館で開催中(2024年2月25日まで)の特別展「和食 ~日本の自然、人々の知恵~」。 無形文化遺産となった和食のルーツを紐解く内容で、日本人の食の歴史に触れる興味深い展覧会である。

そもそも江戸時代の元禄以降の日本人は何を食べていたのだろうか? 幕末の下級武士、尾崎石城(1829-1876)が遺した「石城日記」はその日食べたものの記録が残されている。 今回は「石城日記」を元に江戸の食生活を見ていくとしよう。

※本稿は全体として石城日記を取り上げた大岡敏昭氏の『武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景』と、漫画家で江戸文化研究家だった杉浦日向子氏の『一日江戸人』を参考としていることをお断りしておく。

■意外な記録 江戸時代の肉食

わが国では長きに渡って肉食は一般的でなかった。675年に天武天皇が「肉食禁止令」を発布し、江戸時代にも将軍・徳川綱吉が「生類憐みの令」を出している。

だが、意外なことに石城は時々、肉を食べてる。石城日記に出てくるのは主に鴨やキジなどの鶏肉である。恐らく、肥育したものではなく狩猟したものだろう。

仏教の伝来から明治まで日本では肉を食べる文化が表向きは廃れたが、実は「あまり食べていなかった」だけで日本人は肉を食べていた。特に滋養をつけたい冬期に「薬」と称し、猪や鹿、兎などの肉を密かに食べていた。これを「薬喰」(くすりぐい)と呼んでおり、俳句では冬の季語になっている。

「これは滋養のつく『薬』であり肉ではない」という理屈である。なかなかの屁理屈だ。前述の『イスラム飲酒紀行』で高野氏は飲酒が禁止されているイランで酒を探し、思いの外簡単に密輸酒と密造酒にありついている。イランには20万人のアルコール依存症患者が存在し、社会問題になっているそうだ。

江戸時代の日本と現代のイランでは地域も人種も文化もまるで違うが、人は禁止されると抜け道を作る共通した習性を持っているようだ。なぜなら肉を日常的に食べていた地域もある。それは薩摩(現在の鹿児島)である。

筆者の知る説では薩摩は農業にあまり向かない土地であり、栄養不足を補うために豚肉を食べ始め一般化したとのことだ。江戸末期には島津藩主となった島津斉彬が藩士たちにまかないとして豚肉を使った料理を振舞った記録がある。人気マンガ『ドリフターズ』で島津豊久が躊躇いなく肉食をしていた場面に違和感を感じる読者が一部いたかもしれないが、薩摩の文化圏で育った豊久にしてみればむしろ肉食は自然な行いだったのだろう。

幕末の薩摩の武士は他の地域と比べて体格が良かった。西郷隆盛、大久保利通は180cm前後あり、現代の感覚でも長身の部類に入る。当時の日本人男性の平均身長が155-158cm程度だったことを考えると、異常なほどの体格の良さである。人気マンガ『るろうに剣心』の主人公、緋村剣心は「短身痩躯」と描写されているが、剣心の身長(約158cm)は当時としては「短身」でなく「普通」である。明治初期であることを考えると、剣心が小柄なのでは無く、180cm前後ある相楽左之助や四乃森蒼紫がデカすぎるのだ。

彼らの体格が良かったのは薩摩に肉食の歴史があったからとの説があるが、妥当な説に聞こえる。

■意外な幕末日本の日常生活

最後に少々脱線してしまうが、石城日記からは日常生活について食生活以外にも伺い知れることがある。石城は下級武士だったが意外なことに、自分よりも遥かに禄高の高い中級武士や、逆に身分が下の筈の町人や寺の坊主とも親しく交際している。妹夫婦との関係(石城は独り身で妹夫婦と同居していた)も良好で、義弟から贈り物をされるちょっといい話も日記に登場する。

幕末は男女差別が今と比較にならないぐらいに激しい時代だったはずだが、町人の女性が石城の家に遊びに着て酒を飲むような日常の一コマも描かれている。

「士農工商の明確な身分差があった」が教科書的な答えだが、実際のところ幕末日本の身分意識は一般的に思われているより緩かったようだ。

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