洗濯機を捨てた結果…まさかの「まったく困らない」という事実から見えてきた「便利の怖さ」とは

(※写真はイメージです/PIXTA)

『家事か地獄か 最期まですっくと生き抜く唯一の選択』の著者である稲垣えみ子さんは、さまざまな家電を手放しました。生活必需品だと考えていた洗濯機も捨て、タライ1個での手洗いライフにチェンジ。そこで気づいたという「便利なもの」が持つ別の側面について、著書から一部抜粋してご紹介します。

便利なものを使うのをやめて、初めて知った事実

炊飯器をやめた。電子レンジをやめた。掃除機をやめた。洗濯機をやめた。冷蔵庫をやめた……もちろんいずれも決死の覚悟。

何しろこのどれ一つとしてそれなしの人生なんて経験したこともなく、これなくしてどうやって家事が成り立つのか想像したことすらなかった。どれほど大変なことが待ち受けているのかと超ビクビクと怯えながらの決断だった。

ところが。いざやってみたら、全くどうってことなかったのだ。それどころか、どんどん家事がラクになってきたのである。

もちろん混乱した。

そして必死に考えた。これは一体どういうカラクリなのか?

思うに、理由は主に二つある。

一つは、便利なものはまさにその便利さゆえに、シンプルな物事をいつの間にか「オオゴト」にしてしまう特性があるのだ。

どういうことかといいますと、便利なものを手に入れると、確かに「できること」が増える。ところがこの「できること」がいつの間にか「やらなきゃいけないこと」になり、さらにそれがいつの間にやら「豊かな人生」ってことになって、そこから降りてはいけないというプレッシャーに取って代わるという、もうなんというかものすごく良くできた蟻地獄のような現実の中を私は生きていた。

その事実を、私は便利なものを手放して初めて知ったのだ。

洗濯機を手放したら洗濯物そのものが一気に減った

例えば、こういうことである。

洗濯機があると大量の洗濯物をらくらく洗える。どんな大ものも硬いものもかさばるものも放り込んでスイッチを押せば終わり。

いやー、なんともありがたい話ではないか!

……となると、洗濯物が増える。迷いなく増える。無意識のうちにどんどこ増えまくる。だって増えたところで洗濯の手間は変わらないので増やしていいんである。つまりはなんでもかんでもちょこっと使っては迷いなく洗濯カゴにドカドカ放り込みまくるのが当たり前になる。そのうち、大量の洗濯物を一気に洗った方が効率的ではと「週末にまとめ洗い」なんてナイスなアイデアも思いつく……というのが、かつての私のお洗濯ライフであった。

どこからどう見ても合理的ですよね! ところが、なぜかこの完璧なはずのアイデアの裏で、実は「厄介なこと」がじわじわ紛れ込んできていたのであった。

当然のことながら、下着やタオル、ふきんなど毎日使うものは、少なくとも一週間分揃えることになった。だって週末にまとめ洗いするんだから、そうでなきゃ同じ下着を二日連続で着る羽目になる。かくしてモノがどんどん増える。そしてそれだけじゃない。問題は、汚れ物を最大1週間ため込むのが当たり前になったことだ。

洗濯カゴにはいつだって「汚れ物」がたまっていて、それを見るたびにモヤっとする。つまりは清潔に暮らすための専用マシンを手にしているにもかかわらず、どうも清潔な暮らしをしている感じが全くしない。でもこれ以上一体何をどうすれば良いのか見当もつかず、ただただモヤモヤと暮らし続けていた。

それがですね、例の節電で洗濯機を手放したら、そのモヤモヤが一気に飛んで行ったのである。

なぜかといえば、その途端に洗濯物が一気に減ってしまったのだ。

だって洗濯機がなければ自分で手洗いするしかなくなり、となると「大量のものを一気にまとめ洗い」なんて絶対できない。したくもない。ってことで結局毎朝、前日使った下着とタオルなどをちょこまか洗って暮らすことになった。

このように洗濯が「毎朝のルーティーン」となると、ムダに大変な洗濯は可能な限りやりたくなくなるのが人情というものである。

例えばフカフカのバスタオルなど、手洗いすることを考えたらとてもじゃないが使う気になれませんよ!ってことで、バスタオルは全て処分。考えてみりゃ小さいタオルが一枚あれば体なんて十分拭けるじゃん。ってことで、モノを持つ基準がステキとかオシャレとかではなく「洗いやすく絞りやすいか」どうかが最優先となり、となると物欲も一気にしぼむ。

いろんなものを一週間分揃える必要もなくなった。下着も毎日洗えば雨が降ることも考えて3セットもあれば十分だ。

かくしてモノは減り欲も減り洗濯物も減り洗濯時間も減り、となればもちろん干したり取り込んだりたたんだりする手間も時間も一気に減り、結局、洗濯という行為そのものに費やす時間も労力も一瞬にしてしぼんだのである。

それは驚くほど簡単で快適で清潔な生活だった。

そうなのだ。清潔に暮らすとは、大量のものを効率的にまとめて洗うことではなく、「その日の汚れ物をその日に洗うこと」だったのだ。その行為自体が、新しいまっさらな一日をまっさらな気持ちでスタートする合図なのだ。人生を明るく前向きに生きるエンジンなのだ。

それこそが「洗濯」ってものの意味だったのである!

そしてそれは、ほんのちょっと工夫さえすれば、洗濯機などという大げさなマシンがなくとも、タライ一個で簡単に実現できることだったのだ。

「便利」には恐ろしい側面がある

つまりはですね、便利なものは確かに大きな可能性を持っている。でもその可能性が大きいほど、本当は自分が必要としていない可能性もたくさん提供してくださるわけで、しかしその可能性がある以上、いつの間にか、なぜか「自分」そっちのけで可能性を満たすことの方を優先していたりするんである。

ってことで、洗濯機を使うほどに「清潔な暮らし」から遠ざかってしまう私のような人間が登場するのである。

洗濯機だけじゃない。

冷蔵庫も電子レンジも手放したら、冷凍も作り置きもできないから日々ごく単純な料理をするしかなくなってしまったが、やってみればそれで十分満足できる自分がいた。でも冷蔵庫や電子レンジがあると、それを使ってあれこれ凝ったたいそうな料理を作ることが当たり前になってしまう。で、いつの間にか、日々凝ったものを作ることのできない自分に敗北感や罪悪感を抱いたりしてしまう。

つまりはですね、便利なものっていうのは「自分」を見えなくするわけですね。本当の自分は案外ちょっとのことで満足できるのに、えらく大掛かりなことをしないと満足できない、幸せが得られないかのような錯覚を日々作り出していくという恐ろしい側面を持っているのであります。

稲垣 えみ子

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