『ゆびさきと恋々』の“挑戦”に拍手! すべての人の世界を広げる誠実な映像化に

近年はインターネットの登場により、急速に世界が近くなっていくような印象を受ける。日本では日本語という言語的な障壁、島国という地理的な要因もあり、世界を感じる機会は多くの人にとって限られていた。しかし、言語はAIを含めた翻訳技術の進歩によって、そしてSNSなどの進歩によって、世界はどんどん身近になっている。それでも世界に一歩踏み出す勇気が持てない人は老若男女問わずたくさんいるだろう。今回はTVアニメ『ゆびさきと恋々』を通して、世界を知るということをどのように表現していったのか、考えていきたい。

『ゆびさきと恋々』は2019年より『デザート』にて連載されている、森下suuの漫画を原作としたTVアニメだ。物語は聴覚障害を持つ女子大生の糸瀬雪と、海外経験が豊富な大学の先輩である波岐逸臣を中心とした恋愛漫画となっている。

監督を務める村野佑太は、2019年に公開された映画『ぼくらの7日間戦争』を手がけ、監督を担当したTVアニメ『かくしごと』も話題を呼んだ。特に『ぼくらの7日間戦争』は、1985年に発売された原作をそのまま踏襲するのではなく、現代的な脚色を行いながらも原作の重要な要素を継承するようなアニメ表現に落とし込んでいた。

アニメーション制作を務める亜細亜堂も近年精力的な活動を見せる。特に2023年に放送された『REVENGER』は、時代劇調でありながらアニメらしい外連味のあるギミックを取り入れたオリジナルTVアニメとなっており、近年他に類を見ない企画となっていた。また『映画かいけつゾロリ』シリーズでは丁寧な映像表現が目立ち、近年確かな作品を多く生み出していることもあり、注目度を増しているスタジオでもある。

村野監督は亜細亜堂に所属しており、両者の丁寧な映像表現と物語の構築が今作でも発揮されている。派手なバトルなどがない日常劇であり、キャラクターたちの恋愛描写が中心となる作品であるが、背景美術なども含めた全体の絵の調和と、そして漫画とアニメの最大の違いでもある音に着目した演出で、芳醇でリッチなアニメ表現を生み出している。その説明として第1話が最も適しているので、ここからは第1話を基に今作の挑戦を読み解いていく。

第1話はTVアニメのお手本と言っていいほど完成度が高い。連続するTVシリーズの第1話は、キャラクター、作品の世界観、テーマ、あるいは映像におけるリアリティラインや、コメディ描写の場合デフォルメをどこまで効かせるかなど、視聴者やスタッフへの説明を行わなければいけない。その中でいかに視聴を継続させるほどの魅力的な物語を紡ぐことができるかが勝負となる。

物語は主人公・糸瀬雪が電車に乗っていると、外国人と見受けられる男に話しかけられるシーンから始まる。しかし雪は聴覚障害があり、その言葉を聞くことができずに困ってしまう。そこで波岐逸臣が来て、対応してくれるという出会いの場面が展開される。

ここで重要なのは「さっきの人、日本語、ペラペラ」というセリフだ。雪は聴覚障害があるものの、決してコミュニケーションができないというわけではなく、むしろその事情を知っている友人とは普通に接することができていることが、冒頭のLINEのやり取りの描写でも描かれている。しかしここでは外国人の男性という意識が前に出てしまい、コミュニケーションが取れないと“思い込んで”しまう。

本作のポイントは聴覚障害というハンディキャップの悲哀を描くことではない。相手が外国人の男性、自身が聴覚障害者という前提条件によって、人を見誤ってしまい、コミュニケーションができる可能性を阻害してしまうということを、この冒頭数分間で端的に示している。この第1話においては、聴覚障害というハンディキャップについては触れる程度であり、雪がいかに普通の女の子なのか、という描写を重ねている。

一方で逸臣は言語も堪能で海外経験も豊富な男性だ。彼の役割は単なる雪の恋愛対象だけではない。それも重要な役割であるのだが、あくまでも副次的なものだ。本当の役割は「言葉(思い)を届ける人」であり、会話に不自由だと思い込んでいる雪以外の人物、例えば外国籍の相手であっても、その豊富な言語能力でコミュニケーションを図る。そして最も重要なのは雪に「世界の広さを伝える」ことだ。

今作の場合は世界の広さを知ることを阻害する要因として聴覚障害を設定している。しかし、これはもっと広く、一般的なものに置き換えることが可能だ。例えば地方に住んでいて、その地域社会しか知らない。あるいは東京などの都会にいても、日本しか知らない人は筆者を含めてたくさんいるだろう。SNSやニュースで世界を知っているような気になっても、そこは日本語圏の世界であり、ほぼ日本から見た情報が多く飛び交っている。このように世界を知ることを阻害する要因は、誰にでも、そしてどこにでもあるものだ。その一種の思い込みともいうべきハードルを超える手助けをする相手として逸臣は設定されている。

次に演出面について考えてみたい。今作で最大の注目ポイントは“音”だ。卓越した映像表現もさることながら、本作は“音を観る”アニメと言っても過言ではない。

第1話で言えば雪がオシャレをするシーンの衣擦れの音、ドアの開閉音、車の駆動音、靴の足音、扉の前にある鉄のパレットを踏む音、スマホの振動音、LINEの着信音……そういった、どこにでもあるような環境音がとても大切に表現されていた。それは雪の世界の部分的な表現であり、同時に視聴者が普段、何気なく見過ごしてしまっている世界だ。その音を多く示すことで、身近にありながらも気が付いていない音を多く表現している。

ここで村野監督は原作第1話の2ページにおける音の表現に着目したと語っている。原作では電車内の環境音が、読めない記号のように表現されているが、これは雪の聞こえない世界を可視化した漫画表現だ。TVアニメではクリアな音として表現されているが、その環境音をさらに響かせることで、単なる状況を示す音を超えた意味を持たせた演出となっている。(※)

さらに手話についても触れておきたい。今作の脚本を務める米内山陽子は脚本業とともに手話指導などでも活躍している。手話表現をアニメで行うのは繊細な動きと演技が要求されるため、難しいことだが、そこから逃げることなく表現することに挑戦している。これらの正確性は手話を理解していない視聴者を相手にする時は、適当でもおそらくTVアニメだからと流されてしまうだろう。しかしその派手さも少ない表現の正確性に挑むことにより、より作品の根幹に流れる思いを汲み取り、表現しようという誠実な映像となっている。

これだけの苦労の先に、雪たちが確かに存在し、息遣いを感じるような表現を感じさせる。そしてそのさらに先には、視聴者を含めて世界を広げる、世界を知ることの大切さが伝わるようになっている。この挑戦的な作品に対して、多大な拍手を送りたい。

参照
※ https://go-dessert.jp/news/yubisaki_int2023.html

(文=井中カエル)

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