『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』は“楽しい”突きつけた一作に 今井一暁監督の手腕

仕事柄アニメや映画を観ることが多いが、「“楽しい”とはなんだろう?」と考えることがある。「エンタメ作品において1番大切なのは楽しいことだ」という意見に賛同するものの、楽しい、面白いにも様々な種類がある。作品レビューをする際は、楽しい、面白いを判断するための物差しを、いくつも持っているかが重要なのではないか。そして『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』は、それをあらためて教えてくれる作品だった。今回は映像面を中心に“音楽を楽しむ”ための工夫に迫っていきたい。

『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』は、長編第43作品目となる『映画ドラえもん』シリーズの最新作。のび太がリコーダーの練習をしているところに、不思議な少女のミッカが現れる。ミッカは「音楽(ファーレ)の殿堂」を復活させるためにのび太たちに協力をお願いする。音楽に囲まれた星で楽しく過ごしていたが、世界から音楽を消し去るノイズの存在が迫る……というのが本作の大まかなあらすじだ。

近年の『ドラえもん』映画は、他のシリーズ作品と比較してもクオリティが高い。このクオリティという言葉には、物語表現、作画などの映像表現、音楽表現、キャラクター表現が含まれている。そして作品ごとに、どの表現が優れているかは異なるものの、全体として満足度が高い映画を多く生み出している。

その中でも今井一暁監督は、過去に『映画ドラえもん のび太の宝島』『映画ドラえもん のび太の新恐竜』も手がけている。この2作に共通するのが、圧倒的な映像表現のセンスの良さだ。ファミリー層向けであり、児童も鑑賞することが想定される『ドラえもん』映画では、子どもが疲れてしまうために、他の派手なアクションのアニメのように派手な映像表現をすることが必ずしも正解ではない。

もちろん、それは手を抜くという意味ではない。一級品の芝居もつけられた細やかさがあり、楽しく見やすい動きで魅了するのが今井一暁の『ドラえもん』映画だ。今作もレベルの高い映像表現と、音の合わせ方に魅了された。

今作は音楽をテーマにした作品だが、音楽は映像化を行う際には難しい題材だ。SFならば宇宙や恐竜が登場するしジャングルや地底の冒険であれば、多くの人が比較的映像が思い浮かびやすいだろう。しかし音楽を絵や映像として表現しなさい、と言われても目に見えるものではないということもあり、どのような表現を目指せばいいのかが思い浮かびづらい。そのため、音楽を題材とした作品は個性がより強く発揮されることとなる。

では本作はどのように音楽を映像化しているのか。印象深いのはゲストキャラクターのミッカの星にある「音楽(ファーレ)の殿堂」に足を踏み入れた場面だ。そこでは階段を1段登るごとに音が鳴り、手すりはウィンドチャイムのようにお互いがぶつかり合うことで金属音を響かせる。これは物から音が鳴り、重なり合うことで音楽となる根源的な感動を描いている。

またのび太が投げやりになりかけながらも、リコーダーの練習を重ねて、セッションを行う場面では、ともに音楽を奏でる楽しさが伝わるように表現されていた。

今回のひみつ道具である音楽家ライセンスは、演奏の上達度に応じてアマチュア、プロなどのようにレベルが上がっていく仕組みだ。自身の成長が可視化され、よりやる気を出すことができる、教育にも優れたシステムだ。だが、これは他の人との差も可視化されてしまうことを意味しており、のび太は綺麗なリコーダーの演奏ができないことを悩み、投げやりになってしまう。

しかし、それでものび太は練習を重ねることによって、歩みは遅いものの少しずつ上達していく。そして先に上達した面々と共に合奏することによって、音楽を奏でる楽しさが伝わるように表現されていた。

そして直接的なネタバレになるので、少し回りくどい言い方をするが、終盤の舞台を活かした演出は、音が鳴るということだけが音響演出ではないことを示唆しており、緊迫感を効果的に生み出していた。

同時に映画における音楽が、どれほど重要なのかを示す作品でもある。『ドラえもん』の音楽と関連するひみつ道具の中で代表的なのは「ムードもりあげ楽団」だろう。劇場特典の漫画にも掲載されており、作中でも活躍するひみつ道具だ。原作ではムードもりあげ楽団が奏でた音楽によって、のび太が落ち込んだり気分が高揚したりと、性格が極端になる様子がコミカルに描写されている。

まさしくアニメ・映画における音響効果そのものだろう。多くの人が名場面とともに、印象的な音楽を思い起こす経験をしているはずだ。作中では序盤の音楽が消える演出でおどろおどろしさを出したり、あるいはミッカと初対面する川原の場面での高揚感など、音楽が印象に残る場面が多い。

今井監督はパンフレットでも「楽器がどんどん上手になるのび太たちに感情移入しながら、お客さんもコンサートに参加した気分になれるような、一緒に音楽を演奏したかのような、そういう体験になればいいなと考えていました」と語っている。まさにそういった体験ができる、映画ならではの作品に仕上がっている。

物語についても触れておきたい。こちらは意図が明確であり、とても難しいことに挑戦していると感じられた。人類史上で音楽が初めて奏でられた瞬間を想像してほしい。そこには、どんな思いがあり、人間の歴史と音楽はどのようにあったのか。そんな壮大な思いを抱くSFの醍醐味を感じさせる物語でもあった。

しかし、音楽というテーマを、映像や物語にしていることもあってか、一部で難があるとも感じられた。中盤のミッカの暮らす星の説明がやや冗長気味であったり、あるいは全体的に展開が少し遅いようにも感じられた。

だが、筆者はこれでいいとも考えている。なぜならば音楽と歴史という壮大なテーマを扱いつつ、設定にも意味を持たせ、何よりも映像と音楽を最大限に引き立てるための物語にしているからだ。

そして最も重要なのは、今作はいわゆる“うまい作品”ではないことだ。もちろん、映画としてお金を払う観客が以上、一定のレベルが求められるのはいうまでもない。だが、今作ののび太たちのように音を楽しむ場合、そこに上手い下手が果たして必要なのだろうか。

パンフレットでは音楽を務めた服部隆之がこのように語っている。

「上手になるまで絶対に続けなきゃいけない、などと考える必要はありません。飽きてしまったらやめちゃってもいい。好きだから、楽しいから、ワクワクするから演奏したい、という気持ちを大切にしましょう!」

これはファミリー層向けの、特に児童に向けられた言葉だろう。そして同時に何かを楽しむのに上手いとか下手というのにこだわる必要はない。あるいはそこにこだわるのはかなり高いレベルを要求されるようになってからでも十分だと言える。実際には小学校であろうとも音楽の授業があり、発表会があるだろう。その中で採点や順位付けをされたり、それがなくても他者と比較されることで、自分のレベルを思い知ることになる。だが、それを理由に楽しいという思いを否定されるいわれはない。

物語表現に難があるからこそ、今作は“楽しい”をより突きつける作品になったのではないだろうか。映像表現の楽しみ方は多岐にわたるが、今作は映像と音楽の一体感を味わえる作品となっている。意図が明確で突き抜けた表現に、心から楽しませてもらった。

(文=井中カエル)

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