アウンサンスーチー氏の自宅が競売に 軍統制下の裁判所が命令、入札はなし

ミャンマーの民主化指導者アウンサンスーチー氏の自宅が20日、裁判所の命令により競売にかけられた。だが入札はなく、売却は成立しなかった。

軍統制下の裁判所は今年1月、アウンサンスーチー氏が実兄と所有権を争っていた邸宅について、売却を命じた。

アウンサンスーチー氏は2021年2月、同氏らが率いていた民選政権が軍事クーデターで転覆されて以来、拘束されている。同氏の弁護士は、同氏の同意なく競売を行うことについて、異議を申し立てている。

アウンサンスーチー氏は、2022年12月以来、自らの弁護団と面会できていない。

邸宅の最低価格は、3150億チャット(約227億円)に設定された。

裁判職員は20日午前10時、邸宅の門の外に立ち、入札があるかどうか3回尋ねた後、競売を終了させた。その場にいたのはジャーナリストと関係者、そしておとり捜査の警官だけだった。

計15年間の自宅軟禁をここで

ミャンマーの最大都市ヤンゴンのインヤ湖畔、ユニヴァーシティー・アヴェニュー54番地にあるこの邸宅は、アウンサンスーチー氏本人と同じくらい有名だ。

同氏はこの邸宅で育ち、1988年に軍事独裁政権に抗議する民主化運動を開始した際には、自らが率いる「国民民主連盟(NLD)」の最初の本部とした。その後、2010年まで断続的に15年間続いた自宅軟禁の場所でもあった。

植民地時代に建てられた2階建てのこの住宅は1953年、アウンサンスーチー氏の母親が譲り受けた。彼女のきょうだいの一人が、それまで住んでいた家のプールで亡くなったことがきっかけだった。

父で「建国の父」と呼ばれるアウンサン将軍は、1947年に暗殺されている。アウンサンスーチー氏はアメリカやイギリスなどに滞在していたが、1988年に母親の世話をするためにこの邸宅に戻った。

長い自宅軟禁の間は、ジャーナリストたちは老朽化した建物の前を車で通り過ぎ、常駐する情報部員を避けるために車の窓からこっそりと撮影していた。しかし、アウンサンスーチー氏が解放された短い期間には、正門の前に大群衆ができ、同氏の演説を聞いたり、ジャーナリストが庭でインタビューしたりすることができた。

1999年に夫のマイケル・アリス氏がイギリスでがんで亡くなった時も、アウンサンスーチー氏はこの邸宅にいた。軍がミャンマーへの再入国を許可しないとわかっていたため、夫に会うためにミャンマーを離れることはできなかった。

2009年には、アメリカ人男性がアウンサンスーチー氏に会うために湖を泳いでこの家に渡った。この時には、許可のない訪問を認めたとして、同氏に禁錮3年が科せられた。

2010年にようやく解放されると、アウンサンスーチー氏はこの住宅で支持者や世界の指導者らと会うようになった。2011年にはヒラリー・クリントン米国務長官(当時)、2012年11月にはバラク・オバマ米大統領とそれぞれ面会した。

2012年に議員に当選してからは、議会に出席するために首都ネピドーの自宅で過ごす時間が増えた。ユニヴァーシティー・アヴェニュー54番地は、観光客の写真撮影の背景として人気を保った。

アウンサンスーチー氏の実兄でアメリカ国籍のアウンサンウー氏は、2000年に初めてこの家の所有権を争った。現在カリフォルニア州に住むアウンサンウー氏は外国籍のため、この住宅を所有したり売却したりすることは法律上許されていないが、何年にもわたり繰り返し法的請求を行なってきた。

ヤンゴンの裁判所は2016年、アウンサンウー氏には土地の半分を取得する権利があるが、住宅はアウンサンスーチー氏の所有のままとする判決を出した。アウンサンウー氏は住宅を売却し、売却益を2人で分配することを求めたが、ミャンマーの最高裁は2018年に上告を棄却した。

アウンサンスーチー氏の支持者らは、同氏を弱体化させ、軍事支配に対する長い闘いの象徴となった建物を奪うために、軍が実兄の主張を長らく支持してきたと考えている。

2021年の軍事クーデターにより、司法はクーデター政権の権限下に置かれた。裁判所が今年1月に競売を命じたのはそのためだと、多くの人は考えている。

クーデターによって追放されたNLDは、ユニヴァーシティー・アヴェニュー54番地は歴史的建造物であり、その強制売却は将来の選挙で選ばれた政府によって違法とみなされると宣言している。

また、アウンサンスーチー氏の弁護団は、1年以上、同氏と会うことができず、同氏は売却について自身の意見を述べられない状態だとして、競売の中止を求める申し立てを行っている。

(英語記事 Myanmar: Aung San Suu Kyi house action gets no bids at auction

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