民兵隊から女性を助けようとして追われる身に…イラン出身の難民申請者、先行きの見えない"日本の生活"に不安

イラン出身のAさん(右/弁護士ドットコム撮影)

「このところ、国からの迫害を逃れ、庇護を求めて来日しているのに入国が認められず、成田からそのまま牛久に送られてくるアフリカやイランの人が増えています」

茨城県牛久市にある東日本入国管理センター(牛久)に収容された外国人への面会活動を続ける支援団体「牛久入管収容問題を考える会」のメンバーはそう口にする。

イランの首都テヘラン出身の男性Aさんもそのひとりだ。政府当局による迫害を逃れて来日し、現在、難民認定申請中の彼がどのような経緯で日本にやって来て、その後、どのような生活状況に置かれているかを伝えたい。

●民兵隊から女性を助けようとして追われる身に

髪を覆う「ヒジャブ」のかぶり方がおかしいとして、風紀警察に拘束された女性が2022年9月に急死した事件を機に、イラン全土で市民の抗議活動が広がったが、逆に政府当局の弾圧が強まっている。

オンラインのスポーツショップを運営し、妻と娘とテヘランで暮らしていたAさんは2022年10月上旬、友人のBさんと買い物に出かけた先で、バシジと呼ばれる民兵隊が若い女性を車に押し込んで連れ去ろうとしている現場に遭遇した。

「少し離れた場所でデモが起きていたので、おそらく彼女はそのデモに参加したことで、バシジに追われたのだと思います」

Aさんは、女性を助けるためにバシジと彼女の間に割って入った。妊娠中の妻や7歳の娘がいるAさんにとって、バシジによる女性への暴行は他人事ではなく、義憤に駆られた行動だった。

AさんとBさんを含め、その場を通りがかった通行人7人と、バシジ4人の小競り合いは数分ほど続き、女性を逃がすことができると、Aさんたちもすぐに立ち去った。

バシジとは、イスラム革命防衛隊(IRGC)の配下にある準軍事民兵組織で、政府当局がいうところの「法と秩序の維持に反する人々」に対して残虐な行為に及ぶことで知られる。

地域ごとに制服などに多少の違いはあるものの、木の棒や銃を携帯し、グループで行動していることから、バシジの存在はすぐわかるらしい。

中でも市民から最も恐れられているのは私服のバシジで、彼らはデモ隊に紛れ込んで反政府のスローガンを口にしながら、デモ参加者に暴行を加えるという。

Aさんたちはその場で拘束されなかったものの、翌日の深夜、革命防衛隊がBさんを自宅から連行。その後、Aさんの実家にも向かった。

早朝5時頃、母親と兄が住む実家に現れた革命防衛隊は、Aさんの在宅を確認するため、家の中を捜索し、「Aは国家の秩序を乱す者なので、革命防衛隊の事務所に出頭するように」と伝言を残して去ったという。

●友人が連行されたと知り、ドバイを経由して来日した

兄から電話で事情を聞かされ、連行されることを恐れたAさんはすぐに自分の家を離れた。大人数の兄弟姉妹の末っ子であるAさんは、この日から1カ月半近く、兄が経営する店の倉庫に身を隠している。

この間、Aさんの兄や姉は、長姉のツテを頼りにAさんが出国できるように準備を進めた。まずはイラクにわたり、別の仲介者に依頼して日本の短期商用ビザを取得したAさんは、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイを経由して2022年12月上旬に来日した。

Aさんはこの事件以前に、正規のパスポートを取得していたものの、短期商用ビザを手配した仲介者から「旅券を持ったまま日本に入国すると、イランに送還される。機内のトイレで旅券を処分するように」と指示された。

イランへ送還されることを恐れていたAさんは、その指示通りに旅券を破棄して、空港で難民申請をおこなった。だが、庇護を受けられず、牛久に送られ、申請から5週間後に難民不認定処分が出されてしまう。

収容施設では、携帯電話や通信機器が取り上げられてしまうため、右も左もわからない収容者は、事情を把握するまで外部と連絡を取ることもできない。

当初、牛久の旧棟に入れられたAさんは、支援者だけでなく、ほかの収容者とも接触できない状況が続いた。音信不通の夫の身を案じる不安からか、妊娠中だったAさんの妻は流産してしまったという。

その後、支援者とのつながりを得て、弁護士についてもらったAさんは、難民不認定の審査請求と並行して、仮放免を申請した。収容から半年後の2023年6月、仮放免を認められたAさんは支援者の尽力で神奈川県横須賀市のアパートに身を寄せることができた。

●判決文に記された「モハレベ」(=神への敵意)の意味

迫害を逃れたAさんの実家には、Aさんが来日して数週間後、テヘランの革命裁判所から文書が届いたという。

そこには「デモに参加して治安と国家の秩序を混乱させた」という罪状で拘束するという決定が出たことが、「モハレベ」という言葉とともに記されている。

「モハレベ」とは、ペルシャ語で「神への敵意」を意味する。ヒジャブ事件を機に広がった抗議活動で逮捕されて、判決文に「モハレベ」と記された男性が、拘束から2週間足らずで処刑されたケースもある。

イランの居住環境や郵便事情について少し説明をすると、革命防衛隊に追われるまでのAさんは、夜は自分たちの家に戻るものの、日中は妻子とともにAさんの実家で過ごすことが多かった。

結婚後の夫婦が夫の実家で過ごすことは、イランでは珍しいことではなく、革命防衛隊がAさん夫妻の借りている家を知らなかったことで、Aさんは運よく拘束を逃れられたとも言える。

こうした中、裁判所からの重要な文書が実家に届いたのは、イランでは住所登録が必要なとき、移転の可能性がある賃貸の部屋ではなく、実家の住所を記入するからだろうとAさんはいう。

●仮放免後、10カ月間で4カ所を移り住む

イランに留まれば、友人同様、拘束されてしまう――。そう考えたAさんが日本に来たのは、欧米諸国よりビザの取得が容易だったからだ。

日本にツテもなかったAさんは、支援者とつながりを得たことで何とか生活している。だが、難民申請中の仮放免者は就労も、事前の許可なしに県境を越える自由もなければ、健康保険に加入することもできない。

昨年6月に仮放免が認められ、最初に横須賀に滞在して以来、Aさんは10カ月間で4つの部屋に移り住んでいる。仮放免者に部屋を提供・貸与してくれる団体や個人を探すことは大変なことで、支援者は部屋探しに奔走している。

期間限定ではあるものの、支援者同志の連携によって、辛うじて住居を確保していることで、Aさんはホームレスになることを免れている。

Aさんの代理人をつとめ、難民申請の手続きを進めている金子美晴弁護士は、申請者が置かれた現状を憂慮する。

「迫害を恐れ、手を尽くして国を離れた人が空港で難民申請をしているのに1カ月ほどで不認定とされてしまう。本来、難民認定は早期に認定されることが好ましくはあります。しかし日本での入管行政の現状を見ると、早く不認定にして早期に送還することを目的にしているとしか思えません。

早々に仮放免という立場にされてしまったAさんは就労できませんから、フードバンクなどからの食糧支援と個人の支援者の方たちによるカンパなどで何とか生活している状況です。難民申請者を援助する難民事業本部(RHQ)の面接を受けるにも、仮放免から半年、待ちました。ようやく保護費と住居費を受けられることになりましたが、この先の生活費・住居費・医療費などは、個人の支援者の努力だけではどうしても限界があります」

RHQの保護費は1日1600円、月4万8000円。就労も、健康保険への加入も認められず、生存権が脅かされている申請者に対する金銭面での公的な支援は、RHQによる生活費と上限が月6万円(単身者)の住居費しかない。

危険を逃れて辿り着いた日本で、外も見えない部屋に収容され、電話カードがなければ、外と連絡を取ることもできない。犯罪者でもないのに拘束され、自由を奪われ、いつ外に出られるかもわからない状況の下で、多くの収容者は追いつめられ、心身を病んでいく。

ショックやストレスのせいか、Aさんは時々胃が痛くなるそうで、支援者がつないだ無料低額医療の病院で、胃の検査も受けている。

取材中、Aさんは「明日はイラン暦のお正月だけど、また家族と迎えられなかった」と口にした。これまで何度か会う中で、自身の結婚式や娘さんの写真をうれしそうに見せてくれたAさんは、家族を大切にしている。

「日本に来てから1年3カ月。家族と離ればなれになり、いつもほぼ独りぼっちで働くこともできず、精神的にも生活面でも苦しんでいます。日本に来たのは自分の命を守るためで、それ以外の理由はありません。イランの政情が安定したら、私は誰よりも早くイランに帰国します。1日も早く家族のいる国に帰りたい。だけど、今はそれができないことを、日本の政府にはわかってほしいです」

このような気持ちは、Aさんに限ったことではない。国に戻れない難民申請者はみな先行きの見えない生活に不安を抱えながら、支援者の献身によって日々を過ごしている。

(取材・文/塚田恭子)

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