高校入学時130キロ届かず「野手やりたいです」 “甲子園最速右腕”に訪れた2度の転機

仙台育英で甲子園出場3度、最速155キロをマークした由規【写真:伊藤賢汰】

BC埼玉武蔵で投手兼任コーチ…由規が振り返る甲子園155キロへの道

かつてヤクルトなどで活躍した由規投手は現在、ルートインBCリーグ・埼玉武蔵ヒートベアーズで兼任コーチを務めている。宮城・仙台育英高で3度甲子園に出場し、3年夏には“甲子園最速”の155キロをマーク。稀代の速球王はいかにして生まれたのか。Full-Countでは「甲子園球児の育ち方・育て方」をテーマに、甲子園へ導いた元監督や選手、その保護者にインタビュー。高校入学当時は監督に内野手を直訴していたという。

由規は仙台育英のエースとして2年夏から3季連続甲子園に出場。3年時の2007年夏の大会では、智弁学園(奈良)との2回戦で甲子園最速の155キロをマークした。同年の高校生ドラフトでは5球団が競合し、ヤクルトに入団。2010年には12勝を挙げ、161キロを計測するなど一世を風靡した。34歳になった現在も埼玉武蔵の兼任コーチとして腕を振る。

小学4年でリトルリーグの「仙台東リーグ」に入り、投手と内野手兼任で活躍した。中1で全国制覇を果たし、世界大会で準優勝。初戦でノーヒットノーランを達成した。「仙台西部シニア」では2年時に東北選抜に選ばれ、3年春には全国選抜大会に出場。少年時代から輝かしいキャリアを誇るが、投手としては自信はなかった。「球速は130キロ出ていませんでした。最速で127~128キロくらい。どちらかというと、バッティングの方が得意でした」。

仙台育英高に入学した当初は三塁手。佐々木順一朗監督(現・学法石川監督)に投手か野手、どちらをやりたいか問われ、野手と答えた。「同級生のレベルの高さに圧倒されて、これでは勝ち残れないと思いました。監督に『野手をやりたいです』と言いました」。投手の練習も行っていたが、軸足は三塁手。1年春からベンチ入りした。

仙台育英1年秋に“覚醒”…田中将大を参考に模索した投球フォーム

1つの転機は、東北高と激突した1年秋の地区大会決勝だった。既に両校とも宮城大会出場を決め、“消化試合”の趣だったが、由規はこの試合に先発して7回無失点の快投を見せた。しかも最速が143キロ。高校入学時は130キロに満たなかった投手が、覚醒のキッカケを掴んだ試合だった。「自分でもびっくりしました」と振り返る。

“急成長”の裏には工夫があった。この年の夏、駒大苫小牧・田中将大投手(現・楽天)が、2年生ながら主戦投手として活躍し全国制覇。左手を豪快に使ったフォームが特徴的だった。その投球を見た佐々木監督から「バッターから怖がられる投手になれ」と助言を受けた。そこから田中を参考に左手の使い方を模索。「試行錯誤して腕を振れる感覚がつかめました」と言う。由規は左利きで、投げるのだけが右。「そこが利点だったのかなと思います。今でも左手がうまく使えないと、うまく投げられないんです」と語る。

もう1つの転機は東北戦の快投後に左手を骨折したことだった。宮城大会には出場できず、チームは初戦敗退を喫した。「復帰した時に『こんなものか』と言われるのは嫌でした。成長した姿を見せて認めてもらいたいという気持ちがありました」。翌年には投手としてのコツをつかみ。平均で140キロを超えるようになった。

2年春に背番号「1」を背負い、夏から3季連続甲子園出場を果たした。最も印象深いのは2年の夏。東北との宮城大会決勝は延長15回引き分け、再試合の大激闘になった。由規は2試合計24回を投げ抜き、仙台育英を5年ぶり聖地に導いた。「みんなが認めてくれるようになって、責任感が生まれ、プレッシャーは2年の時の方がありました。自分が打たれたら、終わらせてしまう。3年生の夏を終わらせるわけにはいかないという思いでした」。

入学時は内野手を志していた少年が、1年後には名門校の「1」を着ける存在に。長足の進歩を遂げた背景には、試行錯誤を繰り返した末に手にしたフォーム、エースになって芽生えた責任感があった。4月1日からの「甲子園予備校」に参加予定の由規は、こうした経験を踏まえて、夢を目指す選手や指導者にアドバイスを送る。(片倉尚文 / Naofumi Katakura)

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