記憶失う大事故から五輪出場 アーティスティックスイミング元日本代表 「母がいたから強くなれた」

交通事故による後遺症を克服し、オリンピック出場を果たしたアーティスティックスイミング(旧:シンクロナイズドスイミング)元日本代表が、母との二人三脚で歩んだ道のりについて語りました。

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アーティスティックスイミング元日本代表の石黒由美子さんは、小学2年生のときに交通事故に遭遇し、顔面を540針、口の中を260針縫う大怪我を負いました。一命は取り留めたものの、顔面は粉砕骨折。脳挫傷により事故以前の記憶をすべてなくしてしまい、入院生活を余儀なくされました。

治療中、テレビで見たシンクロナイズドスイミングに憧れたといいます。

「もともと、3歳のころからシンクロをやりたいと言っていたけど、できるような環境ではなかった。それが事故のあと、記憶はないはずなのに『シンクロがやりたい』と母に言ったそうなんです」(石黒さん)

記憶をなくしても同じ気持ちを抱いた石黒さんの姿を見たお母さんは、「これは何かの運命かもしれない。やりたいことを思いっきりやらせてあげよう」と決意。背中を押してくれた母の存在もあり、翌年から競技を始めました。

記憶喪失、顔面まひ、視力障害、神経断裂による難聴、脳挫傷による高次脳機能障害など、さまざまな後遺症に苦しみながらも、お母さんとの二人三脚でオリンピックを目指した石黒さん。2008年には、北京オリンピックへの出場を見事果たしました。

念願の初出場までの道のりについて、石黒さんは「オリンピックを目指した17年間は苦しいことつづき。オリンピックは健常者であっても厳しくて、誰でも行ける場所じゃない。 私はスタートラインが低すぎちゃって、『もう無理だ』と思う場面が何度もあった」と振り返ります。

苦しい日々が続くなかでも、「痛みもつらさもすべてが糧となって、いま悩んでいる人・苦しい思いをしている人に勇気と希望を与えられるような希望の光になれるよ」と励まし続けてくれたのが石黒さんのお母さんでした。そんな母の言葉が力となり、オリンピックに出場することを「生きる意味」「使命」と捉えられたからこそ、投げ出さずに続けてこれたと話します。

「私のことをどこまでも信じてくれる、可能性を無限大に広げてくれる母がいたからこそ、いまがあるなと思っている」(石黒さん)

そんな石黒さんの習慣は、「夢ノートを書く」こと。夢や目標をノートにつづり、叶ったら赤えんぴつで「ありがとうございました」の感謝の言葉を書き、線を引く。そんな夢ノートに10年以上前からずっと書き続けていたのが、「母に捧げるオリンピックにする」ことでした。

北京オリンピック演技当日はお母さんの誕生日だったそうで、「ずっと書き続けていたオリンピックに出場して、まさかの母の誕生日に泳げる。これはドラマだなと思った」と、2つの夢が叶った瞬間を感慨深げに思い返しました。

※ラジオ関西『アスカツ!』2024年3月9日放送回より

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