クドカン最高「不適切にもほどがある!」阿部サダヲが演じた地獄のオガワってどんな人?  人気ドラマ「不適切にもほどがある!」その本質をズバリ考察!

クドカン、磯山晶、阿部サダヲ、満を持しての「不適切にもほどがある!」

大好評のまま終了、SNSでも様々な議論が交わされたTBS金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』は満を持してのスタートだった。なぜ、満を持してか? それは2000年に同局で放送され、脚本家・宮藤官九郎(以下、クドカン)の出世作となった『池袋ウエストゲートパーク』でタッグを組み、その後も数多くの名作を共に生み出したプロデューサー磯山晶とのゴールデンコンビであること。そして、この『池袋ウエストゲートパーク』で脇役ながら視聴者に強烈なインパクトを残した、風俗好きで目立ちたがり屋の警官、浜口巡査を演じた阿部サダヲ主演であるということが挙げられる。

常識の枠からはみ出した阿部の個性は、ドラマの妙味となり、その後の『木更津キャッツアイ』では、建前上野球部監督のヤクザ、猫田カヲル役でも存分に発揮される。2007年には、クドカン脚本の映画『舞妓Haaaan!!!』で映画初主演。もはやクドカンと阿部は運命共同体と言ってもいいだろう。クドカン、磯山晶、阿部サダヲ。令和の時代にこの3人が名を連ねたドラマというのはそれだけ感慨深いものがある。ちなみにクドカンと阿部が脚本と主演でコンビを組む民放ドラマは今作が初となった。

知っての通り『不適切にもほどがある!』は、コンプライアンスが厳しい令和の時代に昭和の常識を笑い飛ばすと同時に、令和の常識に対するクエスチョンを問題提起するというのがドラマのフォーマットになっている。時代考証を元にしたギミックの数々や、今を生きる人たちが頭を抱える問題の数々をあぶり出しながら笑いに変える演出は見事で、書き出せばキリがないのだが、今回はそんなドラマの本質について考えてみたい。

昭和のステレオタイプ、小川市郎が令和の時代にタイムスリップ

阿部が演じる昭和のステレオタイプとも言える中学の体育教師、小川市郎(通称:ジゴクの小川)は、バスの中で平然とタバコを吸い、顧問を務める野球部では根性論をぶち撒け、練習中に水分を取ることを禁じる。部員のミスは連帯責任として全員を並ばせて “ケツバット” という体罰も当たり前だ。多くの視聴者はこんなシーンを見て大爆笑だったと思うが、これが当たり前だったのがドラマの舞台でもある1986年(昭和61年)だ。

今見ると市郎は、かなりヤバい人物に映るが、この時代にこういう大人はごろごろといた。筆者の中高時代も竹刀を持って校内をうろつく教師がいたし、理不尽に体罰を受けたこともしばしば。そんな時代を生きてきたにもかかわらずドラマの描写に爆笑してしまうのは、人間の順応性が成せる技だろう。

そんな “ヤバいやつ” の市郎はタイムスリップした令和の時代で、縦横無尽の活躍を見せる。『ダーウィン進化論』の著者、チャールズ・ダーウィンが言ったとされる「生き残るのは最も強いものや、最も賢いものではなく、変化に最もうまく対応できるものだ」という言葉があるが、この “変化に最もうまく対応できるもの” というのが小川市郎である。ドラマは中盤からこの部分が軸となり進行していく。

セクハラ、モラハラ、パワハラ… 令和の問題を次々と解決

令和の時代にスマホを見事に使いこなし、時にはスマホ依存症になりながらも、コンプライアンスの厳しい時代に規格外の提案を投げかける市郎。セクハラ、モラハラ、パワハラ… といった令和の時代ならではのトラブルを解決していく。そんな市郎に対し、同じく令和にタイムスリップした娘で昭和のツッパリ少女、純子(河合優実)は言う。「チェッカーズとC-C-Bの見分けもつかないオヤジが未来人に頼りにされているんだよ」と。

昭和のステレオタイプである市郎がなぜ、ここまでの順応性を見せたのか? 市郎は決して自分の行動を顧みるタイプではないし、人に影響されるタイプでもない。しかし、市郎は、周囲を取り巻く人たちすべてと全力で向き合う。惜しげもなく自分をさらけ出し、時にはお節介と思えるぐらい、人の心に入り込んでいく。それもいつも真剣勝負だ。相手に嫌われることを鼻にもかけず人と向き合う。

そしてこの根源は亡くなった妻や娘を思う気持ちだということが、分かってくる。このドラマにおいて昭和の常識や令和の非常識というのは物語を構築する上のパーツであり、その本質は熱苦しいぐらいの愛情物語であり、見せかけの常識や世間の建前に動じずに自分を貫くこと、懸命に生きることの大切さをクドカンは投げかけていたのだ。

ドラマの中で大きなポイントとなった阪神淡路大震災

物語の中盤、第5話で市郎は、自分と純子が1995年の阪神淡路大震災で命を落としたことを知る。クドカンは、これまでにも『あまちゃん』で東日本大震災を、『いだてん〜東京オリムピック噺〜』では関東大震災を描いてきた。多くの命を奪った未曾有の出来事と向き合いながら、時代への風刺を織り交ぜながら、生きることへの意味を問う。

タイムスリップした市郎は2024年に留まれば9年後に訪れる死を免れることもできる。しかし、未来を知らない純子が今を懸命に生きる1986年に戻ることを決意する。限られた時間の中で純子と向き合うことを決意するのが市郎の本質だ。

純子は、2024年の未来ではツッパリが絶滅していることを知り、「反抗って結局甘えなんだよね」と覚醒して大学受験に向けた勉強を始める。未来に限りがあることを知ってしまった市郎、未だ見ぬ無限に広がる未来を見据えて懸命に生きる純子。2人の真っ直ぐな思いが交差しながらドラマはクライマックスへと向かう。

世の中の常識、非常識は変わっていくが、人間の本質は変わらない

クドカン脚本の妙味は、登場人物すべてに愛情を持って、その背景もしっかり描く。だから基本悪人が登場しない。ドラマの中では描かれないそれまでの人生を投影させたキャラクターだから喜怒哀楽に強いリアリティを感じる。市郎、純子のお互いを思う深い絆もまた、昭和の常識、令和の非常識に関係なく普遍的なものとして描かれている。これが、このドラマの凄さだ。

最終話、物語のエンディングに掲げられたテロップには、こう記されていた。

この作品は不適切な台詞が多く含まれますが、時代による言語表現や文化・風俗の変遷を描く本ドラマの特性を鑑み、2024年当時の表現をあえて使用して放送しました

つまりクドカンは、世の中の常識、非常識は変わっていくが、人間の本質は変わらないというメッセージを投げかけていたのではないか。変化に対応しながら懸命に生きる市郎のように “今をどう生きるか” を悩み、模索することが何より大切だということを教えてくれている。

カタリベ: 本田隆

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