あなたは「国産ロケットの父」を知っているか–令和にこそ響く「糸川英夫」流イノベーション

糸川英夫は宇宙開発の父、ロケットの父と呼ばれている。IT業界でいうとビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズ、自動車業界でいうと豊田喜一郎や本田宗一郎、漫画の世界でいう手塚治虫のような存在だ。UchuBizの読者に限らず、ペンシルロケットとセットで名前ぐらいは知っているという方が多いのではないだろうか。

JAXA内之浦宇宙空間観測所にある糸川英夫氏の像(写真:UchuBiz編集部)

糸川さんと私の出会い

糸川さんとの出会いは私が26歳のときだった。糸川さんがロケット研究後にはじめた「組織工学研究会」(糸川流システム工学の研究会)に参加したことがきっかけだ。私の専門がシステム工学だったこともあり、糸川さんからの学びは実に面白く勉強になった。しかも、研究会が閉鎖するまでの10年間事務局員をやらせてもらったおかげで、1対1で直に学ぶ機会にも恵まれたことは貴重な思い出だ。

また、糸川さんの変人ぶりに大笑いすることも多かった。たとえば、ある有名人の自宅に招かれたとき、世界的科学者だということで奥さんが時間をかけてフレンチを作ったのだが、コースの最後に大好きな納豆ご飯をリクエストしてしまったことなど、エピソードがつきない。それだけで連載記事になってしまうので、今回はこれくらいにしておくが、その人柄や人間性と糸川流システム工学の魅力に取り憑かれ、1999年に亡くなるまで15年間のお付き合いになった。

糸川英夫氏(左)と。組織工学研究会の忘年会にて(1989年)

東大生産技術研究所から宇宙開発へ

糸川さんがロケット開発をはじめたのは、終戦後まもない1954年だ。そのときの構想が「ジェットエンジンを積んだ航空機をいまさら作っても遅い。超音速、超高速で飛べる飛翔体を作り、太平洋を20分で横断しよう」というものだ。この糸川構想はジェットエンジンではなく、空気のない成層圏を飛翔するロケット旅客機構想だった。この構想を実現する組織は“Avionics and Supersonic Aerodynamics”(航空電子工学と超音速の空気力学)からAVSA研究班と名づけられた。

AVSA研究班は560万円(当時の会社員の月給が2万円)の予算を獲得し、1955年4月12日に国分寺でペンシルケットを水平発射した。その後、国際地球観測年(IGY)のプロジェクトに目的がピボットされ、ロケットのサイズはベビーロケット、カッパロケットとサイズが大きくなっていった。発射実験は秋田の道川に移り、1958年にはついに、真空で製造したコンポジット固体燃料のイノベーションにより、カッパロケットは(K-6)が高度60キロを超えた。これによって、IGYの目的である上空の風、気温などの観測データを得ることができた。IGYにおいて自力でロケットを打ち上げることができたのは米ソを除くと日本とフランスだけだった。

その後、ロケット発射場は太平洋に向けた鹿児島県の内之浦に移る。内之浦の発射場は、世界初の山の中の発射場として、国際宇宙空間研究員会(COSPAR)から「世界で最もユニークな発射場」と表彰されている。人工衛星は軍事目的になるという国会の批判を受け、ロケットを回転させながら軌道に乗せるグラビティターン方式というイノベーションで、1970年に「ラムダ4S」ロケットにより、日本初の人工衛星「おおすみ」が打ち上げられた。これはソ連、アメリカ、フランスに次ぐ快挙だった。

意外なことに、おおすみを打ち上げたのは糸川さんではなかった。東大糸川研究室の秋葉鐐二郎さん、長友信人さん、松尾弘毅さん、糸川研究室最後の大学院生である的川泰宣さん、ロケット班長の林紀幸さんたちが打ち上げたのだ。糸川さんはいつも「私がロケット開発を行ったことで世界に胸を張って誇れることは、優秀な後継者たちを育てたことだ」と断言していた。

JAXA内之浦宇宙空間観測所にある日本初の人工衛星「おおすみ」打ち上げ記念碑(写真:UchuBiz編集部)

おおすみが成功する3年前に糸川さんは東大を去っていた。日本の人工衛星が成功したニュースは中東の砂漠のタクシーで偶然聴いたという。糸川さんは東大退官後に設立した組織工学研究所の仕事で、サウジアラビア政府の脱石油経済転換へのアドバイザーをしていたのだ。当時中東にいた関係者に私が聞いた話によると核融合を提案していたという。今から50年以上前の話だ。

ここで私たちが注目すべきは、当時の東大生産技術研究所が、電気や電子、建築や土木と専門分野が1部から5部にわかれた縦割りの組織だったことと、科学者と工学者という異なるタイプの人間がプロジェクトに参加していたことだ。それぞれが所属する縦割り組織で給料をもらっている異なる領域の工学者、異なる分野の科学者が混在する複雑な組織を、糸川流システム工学でマネジメントしていたのだ。

これから民間に宇宙ビジネスが拡大していく中、私たちが糸川さんから学ぶべきは、東大という旧態依然とした縦割り組織から、どうやってロケット研究、宇宙研究という新研究組織を生み出していったかということだろう。

10年ごとに「仕事を変える」

糸川さんは『驚異の時間活用法』(PHP研究所)で「十年ごとに人生をかえる」と題し、次のように書いている。

「わたしが大学を出たのが昭和十年。それからサラリーマンとして生活し、昭和二十年で終戦になった。だから、ちょうどきっかり十年である。その次は、昭和三十年まで、医学の仕事に従事し、これもきれいに十年。そのあとロケットの研究を行い。やめたのが昭和四十二年であるから、ロケットに従事していた時期は十二年である。その後、組織工学研究所をつくり現在の仕事をはじめてから十四年たつ。あと一年たつと十五年にもなってしまう。これとてもわたしの感覚からすると、まあ十年がいいところである」

糸川さんは敗戦によりGHQの航空禁止令で飛行機がつくれなくなったことがトリガーになり、脳波やバイオリンの研究に移り、サンフランシスコ講話条約で航空禁止令が解除されたが飛行機には戻らずロケットに進み、東大を辞めてから、シンクタンクの組織工学研究所、種族工学研究所を運営している。つまり、糸川さんには、10年ごとに仕事を変えられるというポータブルスキルがあるのだ。それは会社を変えるという転職どころの話ではなく、商売替えすらできるレベルのポータブルスキルだ。

この連載を通じて、私が伝えたいことは次の2つになる。

(1)10年ごとに商売替えができる糸川さんのポータブルスキルとはなにか

(2)日本型の縦割り組織から両利き経営として、宇宙研究などの新事業を行う糸川さん独自の方法とはなにか

そのほか、糸川さんのHow to innovate(凡人が天才を超える方法)、糸川さんの未来予測(非常によく当たる)、糸川さんの人間学(ダイバーシティ経営には必須)などもお伝えできれば幸いだ。宇宙ビジネスに限らず、知恵の宝庫だった糸川さんから学ぶことは多い。

次回は、10年ごとに商売替えができる糸川さんのポータブルスキルに焦点をあててみたい。

【著者プロフィール:田中猪夫

岐阜県生まれ。糸川英夫博士の主催する「組織工学研究会」が閉鎖されるまでの10年間を支えた事務局員。Creative Organized Technologyを専門とするシステム工学屋。

大学をドロップ・アウトし、20代には、当時トップシェアのパソコンデータベースによるIT企業を起業。 30代には、イスラエル・テクノロジーのマーケット・エントリーに尽力。日本のVC初のイスラエル投資を成功させる。 40代には、当時世界トップクラスのデジタルマーケティングツールベンダーのカントリーマネジャーを10年続ける。50代からはグローバルビジネスにおけるリスクマネジメント業界に転身。60代の現在は、Creative Organized Technology LLCのGeneral Manager。

ほぼ10年ごとに、まったく異質な仕事にたずさわることで、ビジネスにおけるCreative Organized Technologyの実践フィールドを拡張し続けている。「Creative Organized Technology研究会」を主催・運営。主な著書『仕事を減らす』(サンマーク出版)『国産ロケットの父 糸川英夫のイノベーション』(日経BP)『あたらしい死海のほとり』(KDP)、問い合わせはこちらまで。

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