【佐橋佳幸の40曲】川本真琴「1/2」天才マニピュレーター・石川鉄男との絶大なる信頼関係  川本真琴の作品作りをがっちりサポートした佐橋佳幸

連載【佐橋佳幸の40曲】vol.211/2 / 川本真琴作詞:川本真琴作曲:川本真琴編曲:石川鉄男

佐橋佳幸が絶大な信頼を寄せる長年の “相棒” 石川鉄男

ミュージシャンはもちろん、アレンジャー、プロデューサー、エンジニアなど、佐橋佳幸は音楽業界の様々な分野における腕ききたちとがっちりタッグを組んで活動してきた。石川鉄男もそう。1980年代半ば、気鋭の若手マニピュレーターとしてめきめき頭角を現してきた石川もまた、佐橋が絶大な信頼を寄せる長年の “相棒” だ。音楽業界でもっとも佐橋をよく知る人物のひとりでもある。

「石やんとは、僕がTM NETWORKのレコーディングに呼ばれたりしている頃に仲良くなったのかな。もともと彼はサウンドクリエイター / マニピュレーターの先駆者のひとり、迫田到さんのお弟子さんなんです。僕がまだ駆け出しで、歌謡曲やアイドルのレコーディングをいっぱいやっていた頃、彼は迫田さんのアシスタントとして働いてて。当時はシンセサイザーのぴこぴこしたサウンドも、まだアレンジャーさんが譜面に書いてマニピュレーターに渡して打ち込んでもらう… というプロセスでやっていたの」

「で、スタジオで、師匠の迫田さんが石やんに譜面を渡して、同じ機材で “せーの” で一緒に打ち込みをやって “負けたら腕立て30回な!よーいどん!” とか(笑)。もう、めちゃめちゃ体育会系ノリでしごかれていて。で、僕は “あ、また腕立てさせられてるやつがいる” って見たんだけど。“師匠、きびしいね” つったら、“オレ、本当は終わってたけどわざと負けたんですよ” とか言って…(笑)。年齢も近かったしね。そんな出会いからだんだん仲良くなっていったんです」

”天才” 石川鉄男と初めて組んだ曲は、渡辺美里「風になれたら」

石川は1965年生まれ。スタジオのアシスタント・エンジニアを経て1984年頃からマニピュレーターとしての仕事をスタートさせた。1983年に発売された世界初のフルデジタル・シンセサイザー、ヤマハDX-7の開発チームに、なんと中学生にして加わるなど、デジタルミュージックの世界では早くから “神童” として知る人ぞ知る存在だった。

「とにかく、とんでもない天才なの。すごいんだよ、もう。もともと迫田さんもマニピュレーターの世界では天才肌で知られていたけど、その迫田さんが “こいつはすごい” と連れてきた子だからね。当然、業界内でも “迫田さんもすごいけど、弟子の石川ってヤツもとんでもないぞ” って噂がどんどん広がっていって」

「そのうち、TMや(渡辺)美里の現場とか、おもにEPICの小坂(洋二)さんチームの現場でやたら石やんと会うようになり始めた。エンジニアの伊東(俊郎)さんも石やんのことを高く評価していてね。伊東さんは、僕のこともいち早く評価してくれていて、“あのサハシって若いギター、いいぞ” といろんな人に勧めてくれた人でしょ。そんな伊東さんから、ある時、“今度レコーディングする美里の曲、佐橋がアレンジだろ? 石川とやってみたら?” って。それが『Breath』ってアルバムの「風になれたら」って曲だったはず。石やんと組んだ初めての曲だったと思う」

アレンジャー佐橋とマニピュレーター石川。初タッグを組んだその仕事で、佐橋は石川の技量が評判通り、いや評判以上であることを実感したという。“たしかにみんなが言うとおり、こいつ、ホントにただ者じゃないぞ” と。

「昔、コンピューターがトラブると、なんかワケのわかんない文字がぶわーっていっぱい出てきたじゃない? あいつ、あれ全部わかるんだもん。それが何を意味して、そこで何が起こっているかを理解できるの。そういう意味で、若いのに松武(秀樹)さんとも対等に話せるくらいデジタルの知識があるんだけど。同じくらい、音楽そのものも大好きでね。だから一緒にやってると、“佐橋くん、ここもっとこうしようよ” とか、“ここをこういう音色にしてもいいかな” とか。なんかそういうのも一緒に組んで考えていく間柄になっていって」

佐橋より4歳下だが、同じく早熟な中学生として天職に目覚めた石川。佐橋同様、いい音楽を作りあげるためならば何でもする。アイディアはけっして出し惜しみしない。音楽的な面以外でもふたりは何かとウマがあったのだろう。彼らはたちまち名コンビとしてスタジオ界隈で知られるようになってゆく。

「自分が仕切る編曲やプロデュースの現場では、それまで迫田さんや松武さんといった先輩方に来てもらうことが多かったんだけど。ある時期からは石やんが僕のファーストコールのマニピュレーターになった。ツーカーになればなるほど話もどんどん早くなるし、たとえば先輩だとちょっと言いづらい提案も、年下の石やんになら遠慮なく言えるというのもあるしね(笑)」

「そうやって一緒に仕事を始めてからほどなく、彼の才能にみんなが気づき始めるわけです。で、“プログラムだけでなく自分でアレンジもしてみませんか?” という依頼も増えたみたいで。今度は石やんがアレンジャーとして僕をギターで呼んでくれる、みたいな間柄になっていったわけ。まこっちゃん(川本真琴)もまさにそういうパターンだった」

ソニー在籍時の川本真琴をがっちりサポート

1996年、岡村靖幸のプロデュース・作曲・編曲によるシングル「愛の才能」でデビューした川本真琴。この曲にマニピュレーターとして参加した石川は、川本自身が作曲を手がけたカップリング曲「早退」で編曲とプロデュースを担当。以降、彼女がソニーに在籍していた時代の作品づくりをがっちりサポートしてゆくことになる。

「たしか石やんから直接連絡があったと思う。最初は彼も岡村くんからマニピュレーターとして呼ばれたんだけど、まこっちゃんが自分で曲を書き始めて、そこから生まれたひとつひとつの断片的なフレーズを現場で石やんがコンピューターにどんどん取り込んで、パズルのようにつなげたり、入れ替えたり…。たとえばコレとコレをくっつけたらいいAメロになるんじゃない? みたいな共同作業を時間かけて細かく細かくやっていたから」

「で、もうここからは石やんがプロデュースと編曲も引き受けるってことでいいんじゃないの? ってなったらしい。そんな石やんから声をかけられて、僕も「早退」で川本真琴プロジェクトに参加することになるんですけど。ちなみにエンジニアも、僕と石やんと3人で一緒にたくさんの仕事をしてきた飯尾(芳史)さんだったし。もう、気心の知れたチームですね」

ヒットチャート最高2位まで上昇した3作目ののシングル「1/2」

そんな流れで佐橋は「早退」に続き2作目のシングル「DNA」、そのカップリング曲「LOVE & LUNA」、そして3作目のシングル「1/2」に参加することになる。

1997年にリリースされた「1/2」は女の子の等身大な言葉がマシンガンのように繰り出されるキャッチーでスリリングなポップチューン。フジテレビ系アニメ『るろうに剣心 -明治刺客浪漫譚-』のテーマに起用されたことも相まってヒットチャート最高2位まで上昇。川本にとって最大のヒットを記録した。プロモーションビデオでは屋根の上で川本真琴自身がアコースティックギターをかき鳴らすシーンがインパクト抜群だったが、実はこのギター、オリジナルヴァージョンでは…。

「まこっちゃんが本格的にギターを始めたのは、デビュー後らしいんだよね。たしか、セカンドシングルの頃、あのPVに出てくるアコギを買ったんじゃなかったかな。だから、もちろんまこっちゃんもギターを弾かないわけではなかったし、あの曲も最初のデモでは彼女が弾いてたんだけど。当時はライヴもそんなにやってなかったから、まだそれほど上手ではなくて。なので、すみません、あれ、レコードでは僕が弾いてます(笑)」

「最初、石やんとまこっちゃんとで作った打ち込みベースのデモがあって。それを、みんな生に差し替えたいんだけどって言われたの。で、まずイントロのギターリフから作っていった。石やんに、“これ、リフがいると思うんだけどさ。川本が同じコードでジャカジャカ弾いてるところ、E7一発みたいなのじゃなくて、何かできないかなー?” って相談された」

「今でも忘れない、目黒のモウリ・スタジオのロビーに3人で座って、まこっちゃんにギター持ってきてもらって。“まこっちゃん、どうやって弾いてる?” って聞いたら、“こういう感じで、こうやって、こうやって…” って、ものすごく一生懸命、ジャカジャカ弾いてくれるんだけどさ。左手はずっと同じポジションを押さえたまま(笑)。たぶん頭の中では鳴ってるイメージがあるんだろうけど、それがまだ自分の知ってるコードでは表現できないような感じで。だから、“気持ちはわかった。じゃ今、石やんとオレで何か考えてやってみるからさ。聴いてみて好きだったら言って” つって。オレがギター弾いて “こんなのどう?” “んー…” “これは?” “あ、そういうの好き” みたいな。そういう感じで作っていったの」

そんなふうにして「1/2」を象徴するキャッチーなイントロのギターリフが生まれた。

「だから、この曲の顔になるリフを考えたのはワタシですってことなんですけど。イメージとしては、スライ&ファミリーストーンがやりそうな、もしくはジェームス・ブラウンがやりそうなファンクのギターリフを生ギターでやってる、というもの。それを、まこっちゃんみたいな若い女の子がポップにやってたら新鮮でカッコいいんじゃないかと思って」

「でもこの曲、すでにアニメのタイアップが決まっていたんだよね。だから、絶対シングルになる曲だったわけで。そう考えると、当時としてはかなり冒険した曲ではあったかも。さすがにちょっと心配になって、石やんに “これ、かなり洋楽しすぎちゃったけど大丈夫かな?” って聞いたんだよ。でも、石やんが、“いや、このリフめちゃめちゃカッコいいから、これで行きたい” と。“もしレコード会社に反対されても、この曲でケンカしたい” って言ってくれたの」

ポップでキャッチーな新しい時代のビート

アコースティックギターのファンキーなカッティングに乗せた、青春のひりひりするような感傷。刹那な思い。それを当時23歳だった川本真琴が等身大の言葉で歌う。そんな女の子、あの時代にはまだいなかった。彼女のパフォーマンスに憧れてギターを持って歌い始めた女の子も多かった。川本真琴がシーンに与えた影響は大きい。川本が紡ぎ出すいくつもの断片的なフレーズを石川がパズルのように組み立てるという方法論も含め、川本真琴プロジェクトは曲作りの段階から従来のアナログな制作方法には縛られない斬新なアプローチで進められていた。

佐橋がギターを奏でるように、自在にコンピュータを操る石川ならではの柔軟な発想は、当時まだけっして一般的とまでは言えなかったヒップホップ的手法の先駆けでもあった。こうしてポップでキャッチーな新しい時代のビートが生み出され、結果、「1/2」は73万枚を超えるセールスを記録する大ヒットとなった。

「最新の技術を使って何かをやることが好きな石川鉄男ですから。でもこれ、考えてみると Pro Tools が普及する前の話だからね。ほぼ人力で Pro Tools と同じことをやってたんだよ。その時は Digital Performer っていう、ようやくオーディオが使えるシーケンサーが出てきたんで、それ使ってやってたね。僕も石やんに勧められて同じのを買ったっけ。そういう新しいものをがんがん使いながら、誰もやってないことを実験する場でもあった」

「ましてやエンジニアは飯尾さんでしょ? 飯尾さんと石やんとでどんどん新しい技術を試してた。でも、それって石やんが技術面だけではなく音楽それ自体のこともものすごく好きなマニピュレーターだからこそなんだよね。まこっちゃんが持ってきたメロディの断片が、たとえ曲として形になっていなくても “ここには何かある” っていうのに気づける人なんだよね。ここには何かがあるから、うまく組み合わせればいい作品ができるって信じてコツコツ作っていくんだよね」

「この時の川本プロジェクトはその信頼関係みたいなものがすごく重要だったと思う。そういう石やんだから、まこっちゃんもちょっとでも何かができたら “石川さんに聴いてもらおう” って思える。ちゃんと曲になっていない断片じゃダメだろう、とは思わずにね。この「1/2」もそういう関係が生んだ曲だった。で、曲ができて、そこからまた、あの、まこっちゃんならではの独特な言葉が乗って、さらに化学反応が起きて面白いことになっていったわけだけど」

佐橋佳幸が8曲参加した初アルバム「川本真琴」

1997年にリリースされた初アルバム『川本真琴』。佐橋は「1/2」などシングル曲をはじめ計8曲に参加。本人いわく “ブライアン・メイのものまね” をやりまくった「やきそばパン」など、川本ワールドにギタリストとして参加して大いに楽しんでいるような楽曲もある。そしてツアーだ。1997年7月、奇しくも佐橋が初参加した曲のタイトルを冠した『川本真琴LIVE 1997 早退ツアー』。ライブビデオにも記録されパッケージ化された最終日、東京・渋谷公会堂までの全9公演に佐橋はギタリストとして参加。盟友、柴田(俊文)とともにバックバンドの中心メンバーとしてツアーをサポートした。

「当時のまこっちゃんって、いわばアイドル的な存在でもあったわけじゃないですか。最初のツアーは、客席、ほとんど男子でね。幕が上がった瞬間からものすごい熱気で。なんか “オレがいるの、気づいてないでしょ” みたいな(笑)。考えてみると、僕、そういう子のツアーに参加したのは初めてだったんだ。最初、びっくりしましたよ。でも、かまわずぶっちぎってバリバリ弾いてたけどね。そんな感じで大ヒット曲と、それに続く大ヒット・アルバムと、ツアーと、全部に参加したわけです。そういう経験は初めてだったし、その後もないんじゃないかな。だから、まこっちゃんのアルバムの曲はけっこう今でも覚えてる。CDで聴いてる曲をちゃんと人前で本物が弾いてる… という意味では、なかなか珍しかったのでは?」

ツアーではもちろん川本自身もギターを抱えてステージに立った。レコーディングでは佐橋が代わりに弾いていたカッティングなどもがんばって自ら奏でた。まだギターを始めたばかりだったというのに、いきなりギターを弾きながらの全国ツアー。そんなスパルタな環境の中、いつも熱心に練習していた川本の姿が印象的だったという。

「レコーディングで僕が弾いたものを、彼女はものすごく一生懸命コピーしていたね。どんどん上手になっていったの。僕もリハーサルの時とか、“オレはこうやって弾いてるから同じようにやってみ?” とか、“ここのところはまこっちゃんも弾いたほうがいいから一緒に練習しておこう” とか、けっこう細かいところまで教えてあげてました。ツアー中もずっと練習してたな。そりゃ上達するわなって話だよね、うん」

次回【佐橋佳幸の40曲】につづく(4/13掲載予定)

カタリベ: 能地祐子

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