夫・宣孝との結婚生活は〈たった3年弱〉で終止符…紫式部が悲しみの中で執筆した『源氏物語』と 日記から読み解く〈宮仕え〉の日々

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紫式部と道長、2人の物語で話題を呼んでいる大河ドラマ『光る君へ』(NHK)。歴史の教科書に載っている貴族たちも次々に登場し、権謀術数渦巻く貴族政治を繰り広げます。ドラマで吉高由里子さん演じる“まひろ”はのちの紫式部。彼女の遺した『紫式部日記』を紐解くと、道長の娘・彰子に仕えた宮中の日々が明らかになっていきます。本稿では、歴史研究家・歴史作家の河合敦氏による著書『平安の文豪』(ポプラ新書)から一部抜粋し、紫式部の生涯について解説します。

受け継がれた才能

紫式部は、藤原為時の娘として生まれた。母親は藤原為信の娘である。為時も為信も受領層で、現地に赴いて国司の長官をつとめる中・下級貴族の家柄であった。紫式部の確かな生年はわからないが、天延元年(973)前後というのが有力だ。

幼い頃に母を亡くし、尊敬していた姉も20代半ばに病死したとされる。つまり、紫式部は父子家庭で育ったわけだ。弟(兄説あり)には惟規がいる。為時は、跡継ぎである惟規に漢学を教えたが、側で聞いていた紫式部のほうがすらすらと覚えてしまうので、「この子が跡継ぎだったら」とたいへん残念がったという。

もともと紫式部の家柄は、父方も母方も公卿にのぼる家系だった。たとえば紫式部の父方の曾祖父である藤原定方は従二位・右大臣、同じく曾祖父の藤原兼輔は従三位・権中納言となっている。母方の曾祖父・藤原文範も従二位・中納言だった。しかし、祖父の代になると、受領層に落ちてしまうのである。

ちなみに家系をみると、紫式部の文学的な才能には血縁者からの影響も関係しているように思う。曾祖父の定方は和歌に秀で『古今和歌集』や『小倉百人一首』にもその歌が載録されているし、もう一人の曾祖父の兼輔に至っては三十六歌仙の一人である。

父方の祖父・雅正(兼輔の子)も有名な歌人として勅撰集にその和歌が載録されているし、父の為時は若い頃、文章生として菅原文時(道真の孫)に漢学を学び、漢詩の名人とされた。幼い頃からこうした文学・学問的な雰囲気の中で育ち、紫式部は自おのずと文才が育っていったのだろう。

さて、結婚が早かった当時にあって理由は不明だが、紫式部は20代になっても結婚せず、父の為時が長徳二年(996)に越前守として現地へ赴任したさいには同行している。

ただ、京が恋しかったようで、近くの日野山の杉に雪が深く積もっているのを目にし、

「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがえる」

と京の小塩山の松の雪を懐しんで詠んだ歌が『紫式部集』に載録されている。

悲しみを晴らすために執筆する

出京から2年後、紫式部は藤原から手紙で求婚され、長徳四年(998)にいそいそと京に戻っている。もちろん宣孝とは在京中から知り合いだったのだろうが、なぜ夫婦になったのかはよくわかっていない。

宣孝は、筑前守や大宰少弐などをつとめる受領層で紫式部と家格は釣り合っていた。が、すでに40代半ばで、他の女性との間にできた20代半ばの息子もいた。ずいぶんと年の差婚であった。

結婚生活は長くは続かなかった。結婚の翌年、紫式部は娘のを産んだが、しばらくすると夫の宣孝が病死してしまい、結婚生活は3年弱で終止符を打ってしまったのだ。『紫式部日記』によれば、それから彼女は家の中で鬱々とした日々を送っていたようだ。現代語訳で紹介しよう。

「面白くもなんともない自分の家の庭をつくづく眺め入って自分の心は重い圧迫を感じた。宮仕に出る前の自分は淋しい徒然の多い日をここで送っていた。苦しい死別を経験した後の自分は、花の美しさも鳥の声も目や耳に入らないで、ただ春秋をそれと見せる空の雲、月、霜、雪などによって、ああこの時候になったかと知るだけであった。どこまでこの心持が続くのであろう、自分の行末はどうなるのであろうと思うとやるせない気にもなるのであった」

紫式部の気持ちがよくにじみ出ている訳文だが、じつはこれ、『みだれ髪』で有名な近代の歌人・与謝野晶子が訳した文章(与謝野晶子訳『与謝野晶子訳 紫式部日記・和泉式部日記』角川ソフィア文庫)なのだ。晶子は『紫式部日記』だけでなく『源氏物語』も全訳しており、紫式部の生き方に共感を覚え、作品を愛していたようだ。

通説では、この時期に紫式部は、悲しみや憂さを晴らすため、『源氏物語』を書き始めたとされる。そして先述のとおり、その内容がすばらしいという噂を聞きつけた藤原道長が、紫式部を招いて娘の彰子に仕えさせることにしたといわれている。それは、彼女が33、4歳の寛弘二、三年(1005、6)ごろのことらしい。

日記は公的な記録

周知のように紫式部という名は本名ではない。紫式部の「紫」は、『源氏物語』に登場する「紫の上」からきているようだ。「式部」というのは、父の為時が式部省の役人「式部丞」だったので、その官職(役職)名からとられたものだ。

さて、ここでたびたび登場している『紫式部日記』に触れておこう。

紫式部は、寛弘五年(1008)秋から寛弘七年(1010)正月までのことを回顧録の形にまとめている。これがいわゆる『紫式部日記』だ。ただ、その内容は、本人の備忘録や儀式の手順といったことを記した男性貴族の日記とは異なり、女房として仕えた彰子が長男を出産したさいのことが詳しく書かれている。

そういった性格から、おそらく藤原道長が公的な記録を残すよう紫式部に要請したのではないかと考えられている。しかし、単なる記録ではなく、紫式部独特の観察眼や心情なども書かれている。

さらに不思議なのは、彰子の長男の誕生録の間に、紫式部が誰かに宛てた消息文(手紙)が挿入されたり、年次不明の雑録が入り込んだりしている点である。

とくに消息文のほうは、親しい知人に宛てたものだとか、娘の賢子に書いたものだなど、諸説ある。賢子が同じく彰子の女房として宮仕えをしているので、愛娘のために宮中の様子をこまごま教えてやった手紙ではないかと、私は考えている。

賢子は紫式部に似て大変な才女であり、後世、三十六歌仙の一人に選ばれている。親仁親王(彰子の妹・嬉子の子でのちの後冷泉天皇)の乳母となり、親仁親王が即位すると従三位の位階を与えられた。

ともあれ、この『紫式部日記』があるお陰で、私たちはこの女性が『源氏物語』の作者であることを知ることができるのである。もう少しいえば、それがわかる記述が出てくるのだ。

盗まれた『源氏物語』

紫式部が宮仕えを始めて2、3年後、彰子は一条天皇の子を出産した。入内から9年後のことであった。入内したのは彰子が12歳のときだったから、数年間は子ができなくて当然だったが、その後20歳過ぎまで子に恵まれなかったのは、一条天皇が亡き皇后・定子を忘れることができず、他の女性を愛せなくなっていたからだという説がある。

事実、定子が次女を産んですぐに亡くなってしまってから、彰子以外の3人の女御との間にも、一条天皇は子をもうけていない。

道長は娘の彰子が子宝に恵まれるよう、寛弘四年(1007)に金峯山に参詣している。その甲斐あって翌年、彰子は念願の男児(敦成親王)を出産したのだ。

彰子は実家(土御門第)で出産したが、紫式部ら女房たちも里帰りに同行した。いよいよお産が近づくと、安産のためにさまざまな読経や加持祈禱などがおこなわれたが、大声でそうした儀式などへの指示を出していたのは道長自身だった。娘の出産にテンションがあがっていることがわかる。

当時、出産は今の時代以上に命がけだった。難産や産後の肥立ちが悪く、定子のように亡くなる女性も多かったからだ。だから万が一のさい成仏できるよう、形式的に出家することが多い。彰子の場合も少しだけ髪の毛を削いでその体裁をとった。

これを見た紫式部は

「くれまどひたる心地に、こはいかなることとあさましう悲しきに」

と、心配のあまり悲嘆に暮れたことを日記に書き付けている。実際、かなりの難産だったが、彰子は無事に出産した。

だが、産婦はくたくたになっているのに、出産直後から毎日のようにさまざまな祝い事や儀式が立て続けに執りおこなわれた。これでは産婦は、たまらないだろう。紫式部も彰子が憔悴している様子を描写している。

一方、道長は男児が誕生して外戚になれるということで、大はしゃぎである。昼も夜も関係なく赤子がいる部屋にやってきては、乳母の懐から孫を抱き取ってしまう。夜中や明け方にもくるので、寝ていた乳母が仰天することもしばしばだった。

あるときなど赤子が道長の衣におしっこをひっかけたが、それでも道長は嬉しそうに衣を脱ぎ、几帳の後ろで衣をあぶって乾かすよう女房に命じたという。親馬鹿ならぬ孫馬鹿である。

生後50日のお祝いも無事に済み、いよいよ彰子が内裏に戻る日が近づいてくる。女房たちがその準備に明け暮れていた頃、彰子が紫式部に「おまえには、御冊子(本)づくりを手伝ってもらいたい」と言ってきたのである。

じつは一条天皇へのお土産として素晴らしい紙や墨を用いた豪華な物語本をつくろうというのだ。その物語というのはもちろん、『源氏物語』だった。原本は、なんと道長が紫式部の部屋から盗んだものだった。

じつは紫式部は、自宅から『源氏物語』の草稿を持ってきて部屋()に隠し置いていた。や校正した原稿は人に貸したり、失くしたりしたが、草稿だけは大切に保管していたのだ。

ところが、である。道長が紫式部の留守中に勝手に部屋に入り込んで、その草稿を持ち出して次女のにあげてしまったのである。プライバシーもなにもあったものではない。

今回の製本は、この最初の原稿がもとになっているので、「拙い作品だと人にそしられるのではないか」とヒヤヒヤしながら紫式部は製本にたずさわった。

河合 敦

歴史研究家/歴史作家

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