寺田理恵子、フジテレビ入社後すぐに伝説のバラエティ番組に出演! 相手がすごい人ばかりで「どうしたらいいのか分からなかった」

寺田理恵子 撮影/有坂政晴

1980年代、漫才ブームの最中に大ヒットとなった伝説のバラエティ番組『オレたちひょうきん族』(フジ)。その中の一つのコーナー「ひょうきんベストテン」の司会、ひょうきんアナ(二代目)を務めた寺田理恵子さん。それまでの女子アナウンサーの概念を崩し、元祖“アイドルアナウンサー”(通称“アナドル”)として、アイドルばりの活躍で人気を誇った寺田さんにとってのTHE CHANGEとは──。【第1回/全4回】

「今日はよろしくお願いします──」。早春の候にふさわしい感のイエローのブラウスに身を包んで現れた寺田さん。自然とこぼれる笑みは当時と変わらずで、優しく安らぎを与えてくれる暖かさが感じられた。そんな寺田さんは84年にフジテレビに局アナウンサーとして入社した。

「小学校、中学校、高校と私はアイドル好きだったんです。だから歌番組やインタビュー番組が好きでよく観ていました。その頃、『スター千一夜』(フジテレビ系)というインタビュー番組があったのですが、そこでのインタビュアーがアナウンサーだということを知ったんです。だったら、私にもインタビュアーになるチャンスはあるという、ちょっとミーハー的なところからアナウンサーの目指そうと思ったんです」

高校時代は放送部に在籍していたという経験もバックアップに繋がった。

「アナウンサーになるためには、とにかく四大を出ないといけないというので聖心女子大に通いました。でも、大学に通いながらアルバイトをしているうちに“局アナなんて難しいから無理だ”って諦めるようになったんです。ところが、たまたま友達に付き合って就職課に行ったところフジテレビで一般募集をしているという告知を見て、じゃあ受けてみようということになり……。
本当はラジオのアナウンサーになりたかったんです。それで、ニッポン放送、文化放送に電話で問い合わせしたら、新卒採用はしていないって言われて。TBSも無かったんですよ。だから、ラジオは全部ダメだと思っていました」

アナウンサー志望の人のためのアナウンサー学校もあるが、一回だけ通って「ちょっと違うかな」って思ったので辞めてしまったそうだ。面接試験での面接官は、昭和世代なら誰でも一度はその声を聞いたことのあるフジテレビの名アナウンサー・露木茂さんだった。

「なんだか分からない原稿をパッと渡されて読まなくちゃいけない。それも、漢字だらけで本当に分からない……と焦りながら読んでいたら、露木さんに“君、意味分かって読んでいるの?”って訊かれたんです。それで、“いいえ、分かっていません。申し訳ございません”って(笑)。すべて素直に言ったんです。最初からダメだって思っていたから、結構開き直っていたというか。そのまんまの素を出していったんです。訓練とか何も受けていなかったから、ちょっと変わった、型にハマっていない存在だと思われたんでしょうね」

入社後すぐに『ひょうきん族』に出演

めでたく入社し、『オレたちひょうきん族』に“2代目ひょうきんアナ”としてアナウンサーとしての道を歩むことになった。

「初代の山村(美智)さんが新婚旅行に行かれることになって、私はピンチヒッターとして入ったんです。その年の6月まで研修をしていて、7月に収録が始まったんですよ。だから、まさに研修終わりの最初のテレビ出演でした」

本番組の横澤彪プロデューサーからは“”「良い子ちゃん過ぎるよ。もうちょっと悪くした方がいいよ」とも言われた。

「それこそ、どうしたらいいのか分からなかったし、相手も島田紳助さんや西川のりおさんといったすごい方ばかりで。やっぱり気持ちとしては上手くやろうって意識しちゃうんですけど、横澤さんからは“”『上手くやろうとするな、もっと思いっきり返しちゃえ』みたいなことを言われたんです。でも、私の性格上、上手くできませんでした」

寺田理恵子(てらだ・りえこ)
1961年7月15日、東京都生まれ。聖心女子大学文学部卒業。A型。84年、フジテレビ入社。85~86年にバラエティ番組『オレたちひょうきん族』で2代目ひょうきんアナを務める。89年に結婚を期に退社、フリーとなる。98年に離婚。2000年に再婚し専業主婦として生活。しかし2012年に死別。2014年に復活。現在は朗読教室やアナウンススクールの講師を務めるかたわら、認知症サポーターとして朗読ボランティアや講演活動を行っている。

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