O.J.シンプソンさん死去 「世紀の」殺人事件裁判で無罪の元アメフト選手

アメリカン・フットボールNFLのスター選手から人気俳優となった後、元妻らの殺人事件で起訴されたものの無罪となったO.J.シンプソンさんが10日、死去した。76歳だった。家族によると、がんを患っていた。

で、シンプソンさんが「大勢の子供や孫」に囲まれながら死去したと明らかにした。

米サンフランシスコ出身のオレンサール・ジェイムズ・シンプソンさんは、南カリフォルニア大学のアメフト選手として有名になり、1969年にNFL入りした。ボールを運ぶ要のランニングバック(RB)として大活躍し、1973年には、シーズンで2000ヤード(約1830メートル)以上ボールを前に進めた初のNFL選手になった。

1979年に現役引退。俳優に転身し、映画「タワリング・インフェルノ」や「裸の銃を持つ男」シリーズなどに出演。テレビのスポーツ解説やコメンテーターとしても、広く人気を博した。

1994年にロサンゼルスで、元妻ニコール・ブラウン・シンプソンさんとその友人のロン・ゴールドマンさんが刺殺される事件が起きると、シンプソンさんは重要参考人とされた。出頭する予定の当日、シンプソンさんは元チームメートと乗用車で逃走。シンプソンさんの乗った白い乗用車がパトカーの車列に追跡される様子は、当時アメリカで開始間もない24時間ニュース・チャンネル各局で生中継され、アメリカ内外で注目された。

逮捕後の裁判はアメリカで「世紀の裁判」と広く報道され、検察はシンプソンさんが嫉妬による激情にかられて元妻とその友人を殺害したのだと主張した。血液や毛髪のほか、繊維の鑑定結果などが、証拠として提出された。

これに対して弁護側は、警察が人種差別を動機に、シンプソンさんを犯人に仕立てたのだと主張した。

殺害現場で見つかったとされる血のついた手袋を法廷ではめるよう、検察官がシンプソンさんに求めると、シンプソンさんの手はなかなか手袋に入らなった。世間の注目を集めた裁判の中でも、このやりとりは特に注目された。弁護団のジョニー・コクラン弁護士はこれについて最終弁論で、「(手袋が)はまらないなら、無実にしないと」と陪審団に語りかけた。

陪審は最終的に、シンプソンさんが「絶対に100%無実」だとする評決を出した。この無罪評決はその後、しきりに議論されることになる。

被害者の遺族は刑事裁判の結果を不服として、1997年に民事訴訟を起こした。この民事裁判では裁判長が、シンプソンさんが2人の死亡について責任があると認定し、遺族に3350万ドルの損害賠償を支払うよう命じた。

2007年には、ラスヴェガスのホテルで起きた別の強盗事件で逮捕された。自分のNFL時代に関する物品を取引していた業者2人を、共犯4人と共に銃で脅し、物品を盗んだ罪で翌年に有罪となった。禁錮33年の実刑を言い渡されたが、仮釈放が認められるまでの最短期間の9年間、服役した後、保護観察付で仮釈放された。

米NBCのアメフト中継をシンプソンさんと一緒に担当したアナウンサーのボブ・コスタスさんは、シンプソンさんはスターになった最初のアフリカ系アメリカ人ではなかったものの、「大々的に成功して人気者になったアフリカ系アメリカ人のスターは、彼が最初だった」と話した。

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は、1968年に同賞に選ばれたシンプソンさんの死去を悼み、遺族に追悼の思いを伝えるとソーシャルメディアで書いた。

殺人事件の裁判でシンプソンさんを弁護した弁護団のひとり、カール・ダグラス弁護士は、訃報を知って「衝撃を受けて驚いている」と述べた。また、自分とシンプソンさんの名前は「今後なんらかの形で永遠に結びつけられ」て語られるのだろうと話した。

殺人事件の被害者、ロナルド・ゴールドマンさんの父フレッドさんは、米NBCニュースに対して「世界にとって特に損失でもなんでもない」、「ロンはもうずっといない。そのことをあらためて念押しされた」と話した。

刑事裁判で元妻ニコール・ブラウン・シンプソンさんの遺族を代理したグロリア・オールレッド弁護士は声明で、司法制度は虐待された女性を守らず、「有名な男性が、真の正義の裁きをいかに免れる」か、シンプソンさんの死去はあらためて浮き彫りにしたと述べた。

(英語記事 OJ Simpson, NFL star acquitted in ‘trial of the century’, dies aged 76

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