宮中では〈馬鹿なフリ〉をしていた紫式部の涙ぐましい努力…『紫式部日記』の〈ある記述〉から浮上した、道長との特別な関係性

(※写真はイメージです/PIXTA)

紫式部と道長、2人の物語で話題を呼んでいる大河ドラマ『光る君へ』(NHK)。歴史の教科書に載っている貴族たちも次々に登場し、権謀術数渦巻く貴族政治を繰り広げます。ドラマで吉高由里子さん演じる“まひろ”はのちの紫式部。彼女の遺した『紫式部日記』を紐解くと、紫式部と道長の実際の関係性が明らかになりました。本稿では、歴史研究家・歴史作家の河合敦氏による著書『平安の文豪』(ポプラ新書)から一部抜粋し、紫式部の生涯について解説します。

馬鹿なフリをする

紫式部は、悲観的で他人からの評判ばかり気にする繊細なタイプだった。かつていじめられたトラウマもあったせいか、宮中では、なるべく目立たないようにしていた。

とくに当時、女性に漢学の素養があるのは、「日本紀の御局」と陰口をたたかれたことでわかるとおり、生意気ではしたないとされ、非難の的になった。このため、驚くべきことだが、紫式部は「一」の字も書けない、屛風の漢詩も読めないといった、馬鹿なフリをし続けてきたのだ。

漢文に興味を持った彰子から白楽天の「新楽府」のレクチャーを頼まれたさいも、他の女房たちに悟られないよう、こっそり2人だけで講義した。露見したらすぐに悪口をいわれるからだ。もちろん『源氏物語』を読めば教養の深さはすぐにわかるわけだが、それでも紫式部は、決して人前では知識をひけらかさず、謙遜し続ける態度を守った。

そんな彼女とは、正反対の人物が清少納言だった。明るく積極的、堂々として強気で、自分の教養を隠そうとしなかった。清少納言は皇后・定子の女房だったので、紫式部が宮中でまみえることはなかったと思うが、紫式部は清少納言を『紫式部日記』で次のように批判している。

「それにつけても清少納言ときたら、得意顔でとんでもない人だったようでございますね。あそこまで利巧ぶって漢字を書き散らしていますけれど、その学識の程度ときたら、よく見ればまだまだ足りない点だらけです。彼女のように、人との違い、つまり個性ばかりに奔はしりたがる人は、やがて必ず見劣りし、行く末はただ「変」というだけになってしまうものです。例えば風流という点ですと、それを気取り切った人は、人と違っていようとするあまり、寒々しくて風流とはほど遠いような折にまでも「ああ」と感動し「素敵」とときめく事を見逃さず拾い集めます。でもそうこうするうち自然に現実とのギャップが広がって、傍目からは『そんなはずはない』『上っ面だけの噓』と見えるものになるでしょう。その「上っ面だけの噓」になってしまった人の成れの果ては、どうして良いものでございましょう」
(山本淳子編『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』角川ソフィア文庫)

かなり手厳しい批判であり、筆誅といえるようなこき下ろしようだ。教養をひたすら隠して宮仕えしている紫式部にとっては、平然と教養をひけらかし、なおかつ、いまだ宮中で評判が高い清少納言が憎々しく思えたのだろう。

ただ、そんな批判の中に、「本当は私もあなたのように他人を気にせず、自分をさらけ出してみたい」という羨望の気持ちが見え隠れしているような気がしなくもない。

紫式部と道長の関係

『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルは、諸説あって確定していないが、有力な1人が藤原道長である。

道長の項で述べたように、道長には倫子と明子という2人の妻がいるが、権力者ということもあって、それ以外にも多くの女性と性愛関係を結んでいた。しかも年上の女性に愛されており、光源氏の恋愛遍歴に似ている。

そんな道長が、紫式部にもいい寄ったという説がある。『紫式部日記』にある話だが、あるとき道長が彰子のところにやって来て、置かれていた『源氏物語』を手にとり、側に控える紫式部に向かって

「こんな物語を書くあなたは、相当な好き者だと評判だよ。あなたの部屋の前を素通りする男はいないでしょう」

という戯れ歌を詠んだ。対して紫式部は、即興で

「私はまだ男性を知らないのに、誰が私を好き者といっているのかしら。怪しからぬことです」

という意味の返歌をした。経産婦なのによくいうが、このすぐ後に、次のような文章が載っているのだ。

「ある夜、部屋の戸をたたく人がいる。私は恐ろしさに息を潜め、じっと夜が明けるのを待った。すると早朝に
『夜もすがら水く ひな鶏よりけになくなくぞ真木の戸口に叩きわびつる(水鶏は夜通し、戸を叩くような声で鳴くけれど、私はもっと泣きながらあなたの部屋の戸をずっと叩いていたのですよ)』
という歌が届いた」

戸を叩いた男が誰かわからないし、紫式部は部屋に男を入れなかったうえ、送られてきた歌に対し、

「どうせあなたにとっては火遊びでしょうし、戸を開けたら後悔したはず」

という返歌をしたとある。

ただこの話は、道長との好きな者云々のやりとりに続いて『紫式部日記』に出てくるので、戸を叩いた男は道長だという説が有力である。また、2人の間には、一夜限りの契りがあったのではないかとか、紫式部は道長の妻だったのではないかという説もある。

周知のように、平安時代の恋愛は男が女に愛を告白する歌を送ることから始まる。ただ、一度は女性が断るのがエチケットだった。やがて二度、三度と愛の歌が届き、女性がその想いを受け入れた場合、返歌を男性に届けた。もちろん男性はその夜、女性の屋敷へ入って想いを遂げるのだ。

当時は相手の容姿より、和歌のうまさが恋愛の成否に大きく関わってきた。そのため、中には自分で歌をつくらないで親族やプロの歌人に代作を頼むケースも多かったといわれる。

果たして紫式部と藤原道長が男女の関係になったかどうかは不明だが、道長が紫式部を高く買っていたのは間違いない。

紫式部の活躍

紫式部がいつ宮中から下がったのかは記録にないし、やめた理由もわかっていない。ただ、40歳頃の長和二年(1013)までは現役だったようだ。近年は寛仁三年(1019)まで女房をしていたという説も登場している。

ただ、それからまもなく死去したらしい。年齢でいえば40代後半になるはずだが、晩年、どこでどんな生活を送ったのかはまったくわかっていない。

『源氏物語』はその後も人びとに愛読され続け、約150年後の十二世紀には、この物語をもとに『源氏物語絵巻』がつくられた。現在、絵巻は国宝に指定されている。

しかも絵巻の第三十八帖「鈴虫」の二の絵が、西暦2000年に発行された二千円札の裏の図柄に採用された。このお札には小さく紫式部の姿も配された。『紫式部日記絵巻』の「紫式部の局を訪とう斉信と実成」の絵から切り取ったものである。紫式部本人も、1000年後に自分がお札の図柄になるとは思いもしなかったろう。

河合 敦

歴史研究家/歴史作家

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