小説家・原田ひ香が“ヤバい”と危機感を覚えた大物新人作家の存在「その作品に触れ、諦めかけていた新人賞応募作品を書き上げることができた」

原田ひ香 撮影/三浦龍司

『一橋桐子(76)の犯罪日記』(NHK総合)や『三千円の使いかた』(フジテレビ系)など、近年、作品のドラマ化が著しい小説家の原田ひ香さん。秘書勤務や専業主婦を経て、文章を書き始めたのは、30代半ばのことだった。そんな原田さんのTHE CHENGEとは。【第2回/全5回】

ドラマ用の企画を模索し本を読み漁る日々

『三千円の使いかた』(中央公論新社)をはじめ、読者を惹(ひ)きつけて止まない、エンタメ性に富んだ作品を精力的に執筆する、小説家の原田ひ香さん。同作のほか『一橋桐子(76)の犯罪日記』(徳間文庫)もドラマ化しているが、ほかの原田さんの作品も、読み進めているとついつい脳内で映像化してしまうという特徴がないだろうか。それは、原田さんがシナリオライター出身であることが一因かもしれない。

30代前半のころ、独学でシナリオを学びながら、初めて書いた作品がフジテレビ主催のヤングシナリオ大賞の最終選考に残り、その3年後に『リトルプリンセス2号』で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞を受賞した。フジテレビ、NHKとつながり、さらにTBSの子会社からも声がかかり、ドラマの企画会議に出るようになったという。

「週1回くらい、いろいろなドラマの企画を出していました。当時は2時間ドラマがたくさんあって、“2時間ドラマになるようなものがいい”と言われていて。それまでは純文学が好きで、いわゆるエンターテインメント小説はあまり読んでいなかったんです」

未開の分野だった「ドラマになりそうな、タイトルがキャッチーで、風変わりな刑事さんが出てくるような事件モノのエンタメ小説」を、とにかく探して読み漁った。

「ほかにも、探偵ものとか、ダイナミックな感じの話とか、そういう作品を探してきて2時間ドラマ用の企画書を書いて、週1回必ず企画書を提出する──ということをやっていました。
ただ、”これだ”と思って読んでいても、ページが進むうちに“あれ? これはちょっと違うな”となる作品も多くて、そうするとまた探しに行かなきゃいけない。だから毎日のように大型書店に通い、平積みされている新刊をとにかく探す、ということをやっていました」

ドラマ制作の大変さを身をもって経験した

探索は図書館にも及び、「数年前の作品でもいいから、見逃されてまだドラマになっていないものはないか、いかにもドラマになりそうなものはないか」と血眼になっていたという。1か月の報酬1万2千円は、書籍代と交通費代で瞬く間に消えたが、いたって前向きだった。

「その1万2千円が、なんだか“初めてもらったお金”みたいな感覚で、”私、すごい仕事をしているんだ”と思ったんです。久しぶりに手帳を買って、いろいろと書き込んだりすることも嬉しかったですし、すごくエンターテインメントの勉強になりましたね。こういうことを1年半くらいやっていたから」

ーー1年半! 結構な長期間ですね。

「そうですね。TBSだけじゃなく、NHKにもフジテレビにも出していたので。同時に文章も書いていたので、本当に勉強になったと思います。いま振り返ると、結局、ドラマ化まで持っていけたものはほとんどなかったんですよね。原作者NGが出たこともありました」

ーー最近はドラマ制作においてさまざまな問題点が浮き彫りになりましたが、ドラマを作るのも、本当に大変な作業ですね。

「そう。だから、どちらの立場もすごく分かるなと思います。企画が上がってもなかなかドラマにならないんですよね。事件系だと、当時はバラバラ殺人などの凄惨(せいさん)な殺人の放送がNGで、“押したら倒れて、たまたま頭を打って死んだ”とかが良くて。
だからもしかしたら、Netflixとか(配信)もある、いまのほうが自由なのかもしれませんね。あとは、沖縄や北海道など(遠方)が舞台の作品は予算がかかるからダメとか、面白いなあと思いましたね。勉強になりました」

旅行先で読んだ本がその先の人生の手がかりに

ーーそのころは「小説家になりたい」と思う暇もない印象を受けます。

「いやもう、日々の作業に必死でした。さすがにちょっと疲れてきちゃって。プロデューサーの中には、夜中に“明日の朝10時までに企画ない!?”という電話をかけてきたり、夕方に“明日までにやって!”と連絡してきたりする方もいて、夜までに本屋さんに行って買って読んで企画書を書いて……ということもありました」

企画書といえど、そのページ数は2、3ページで済むこともあれば、さらに上層部への提出となれば10ページ、50ページと増えていく。その労力は想像を絶する。

「そのうち、電話が鳴るだけでつらくなって、心臓がキュッとなるようになってしまったんです」

身体からのSOSを感じ取り「これはちょっとヤバいな」と自覚した原田さんは、すぐに自分をケアするべく行動に出た。

「“風邪をひいた”とうそをついて、1週間休んでインドネシアのバリに旅行に行きました。本当に久しぶりに休んで、海を見ながら、保坂和志さんの『カンバセイション・ピース』(新潮社)という純文学の本を読んだんですよね。
同居する5人くらいの男女が、ずっとだらだらおしゃべりしているような話で。もう久しぶりにドラマとまったく関係のない本を読んで、ドラマにはなりにくい話なんですが、それを読んだときに“私、こういうものが書きたい!”と思ったんです」

それからテレビ局で作業をする自分に違和感を覚え、「辞めたい」と思うようになったが、すぐに言い出すことができなかった。ひらめいてから2か月ほどたったころ、ようやく「辞めます」と伝えることができたという。だが、それも不発だった。

「伝えたのが11月で、すぐに辞めさせてもらえなくて。年が明けてすべての仕事が片付いたころに"あと3年くらい頑張れば、絶対に好きなものを書かせてあげるから”と言われましたが、それでも辞める意志が変わることはなく、ようやく1月に辞めることができました」

湊かなえの存在が筆を走らせた

原田さんはすぐに執筆に取りかかった。なにせ、同年3月末締め切りのすばる文学賞への応募を見据えていたのだから。書きたいものが書ける喜びか、流れるように筆を走らせていた原田さんだったが、ラストがうまく書けずに苦しんだ。「次の機会にしようかな」と諦めかけた矢先、思いもよらぬ刺激を受けることとなる。

「3月半ば、私も受賞したNHK創作ラジオドラマ大賞の、第35回の授賞式に参加しました。そのときの大賞が小説家の湊かなえさんの『答えは、昼間の月』(双葉社『山猫珈琲 下巻』に収録)。その作品がすっごく良くて。
そのときに、その場にいた誰かが言ったんです。“ここ数年でいちばん良かった”って。前年に大賞を受賞した私がいることに気づかなかったのかわかりませんが、これを聞いたとき、自分自身に対して“ヤバい”と思ったんです」

その言葉を聞いた原田さんはすぐに会場を後にして、家に着くや机に向かった。諦めかけていた作品をラストまで書くためだ。こうして3か月弱で書き上げた『はじまらないティータイム』(集英社)は、第31回すばる文学賞を受賞することとなったのだ。「最初に書いたものですぐに賞を取るなんて思わなくて、ラッキーでした」と振り返る原田さん。

いまもコンスタントに作品を生み出し続け、そのたびに読者を満足させているのだから、決して単なる「ラッキー」ではないことは言うまでもないが、原田さんは飄々(ひょうひょう)と「いえいえ、ラッキーでしたよ」と話すのだった。

原田ひ香(はらだ・ひか)
1970年生まれ、神奈川県出身。’05年、『リトルプリンセス2号』で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞受賞。’07年、『はじまらないティータイム』(集英社)で第31回すばる文学賞を受賞。’18年に上梓した『三千円の使いかた』(中央公論新社)がロングヒットを記録し、’22年時点で累計発行部数90万部を超え、’23年に第4回宮崎本大賞を受賞した。最新作は、定食屋を舞台にした心に染みる人間物語『定食屋「雑」』(双葉社)。

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