フィルム上映がなぜ特別なものに? “コンテンツ文化”への変化がもたらした映画館の在り方

いま公開中のクリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』の上映劇場一覧を眺めていると、「IMAX」や「Dolby Cinema」といったラージスクリーンフォーマットの上映形態と同じように、「35mmフィルム上映」と明記されている劇場がほんのわずかだけある。国内の映画館における上映方式の主流がフィルム(概ね35mm)からデジタル(DCP)に移り変わってからもう10年以上が経つわけだが、それまで“普通”だったフィルム上映は少数派になったというより、すっかり“特別”なものになりつつあるようだ。

まだギリギリ消費税導入前の平成超初期に生まれた筆者の世代ではフィルム上映が当たり前であり、率直にいって35mmだからなにか特別なものが味わえるという感覚はいまもほとんどない。厳密には集約されている情報量に違いがあったり、映画的なルックや特有のあたたかみを求めてフィルム至上主義を貫く人も少なくないが、いまやそこにこだわっていたら映画館で映画を観られなくなるほど選択肢は乏しい。もっとも、映写機から放たれてスクリーンに投影された光と像を浴びるという映画の基本原理はどちらでも共通しているので、“観る”という一点においては両者にさほど大きな違いがあるとは思っていないほどだ。

たしか初めて「デジタル上映」なるものに遭遇したのは、『トイ・ストーリー2』か『ダイナソー』か、いずれにしても有楽町の日劇プラザであった。その時に抱いた感想は、「なんだか目が疲れる」という漠然としたものであったと記憶している。そこからおよそ10年近くをかけて、映画館は軒並みシネコン化していき、同時にほとんどがデジタル上映へとシフトしていく。おそらくこの10年ぐらいでオープンしたシネコンや他の小さな映画館であっても、フィルム上映に対応していないところがほとんどであろう。

10年ほど前のことになるが、筆者は横浜のとあるシネコンで映写スタッフとして勤務していた。その劇場は2010年にオープンして、初めの頃は13あるスクリーンすべてにフィルムとデジタルの映写機両方が導入されていたのだが、2015年の春には11のスクリーンでフィルム映写機が撤去。勤務していた3年ほどのあいだでフィルム映写機が使用されたのは、DCPが作られていなかった『映画ふたりはプリキュア Max Heart』のイベント上映のとき限りだった。

先述の『オッペンハイマー』を35mmで上映している109シネマズプレミアム新宿は、昨年オープンしてまもなく1周年を迎える。以前取材に伺った際に、現役バリバリで稼働しているフィルム映写機を見させてもらったが、この映写機もどこか地方の映画館で使われなくなったものを譲ってもらったものだという。国内でのフィルム映写機の製造は2012年に終わっており、海外でも10年前にキノトン社が製造中止を発表。フィルムそれ自体の生産も相次いで縮小され、現像所も事業を終え、映写機はいまあるものしか使えない。フィルム上映という文化は、まさに消滅の方向にしか向かっておらず、明日突然終わってもおかしくない状況にあるのだ。

そうした事情を踏まえると、“失われようとしている貴重な文化を味わう”という意味においての特別感は存在しているのだが、そんな消極的な特別感は本当に特別なのだろうか。そもそもなぜ映画はフィルムからデジタルに移行したのか、そこにはいくつもの理由が存在するはずだ。例えばクリエイションの面でいえば、ノーランやクエンティン・タランティーノなど、現在もフィルムで映画を撮ることをモットーにしている監督がいるわけだが、そこにはフィルムでしか実現し得ない彼らのビジョンがあるからに他ならない。とはいえフィルムでの映画づくりは様々な面でコストがかかる。それこそ自主やインディペンデント映画であれば、予算がカツカツなのだから、近年のようにiPhoneひとつですべてが完結するに越したことはない。

上映するうえでもやはりコスト面は大きな課題であった。映画館でフィルムを上映するとなれば、まず300館なら300館分のプリントが必要になる。デジタルであれば一つの劇場にHDDを送ってその劇場のメインサーバにインジェストが終われば、別の劇場にHDDを転送して……ということもできる。それにプリントは何巻かに分かれた状態で届けられるので、それを映写機にかけるために大きなリールへと巻き直す作業が必要となる。もちろん上映終了後にはまた小さなリールに巻き直して返送するので、繰り返すうちにフィルムはどうしたって劣化していくわけで、コマの欠落も珍しいことではなかった。

しかも1990年代後半に主流になったシネコンにおいては、複数のシアターで複数の映画が一斉にかかっている状態が通常。そもそもプリントがひとつしかなければ、同じ時間に同じ作品を複数のシアターでかけることはできないし(デジタルでは全シアター同時に流すことだってできる)、映写室に映写スタッフが常駐することが当たり前だったので、その分労力と人件費がかかる。対してデジタルならば、メインサーバーにインジェストされたデータが各シアターサーバーに送られ、登録されたSPLやスケジュールが正常に作動していることさえ確認できれば映写スタッフの必要性がなくなる。たまたま筆者の働いていた系列ではいかなる時間帯にも映写スタッフが常駐する方針があったが、他の系列では当時からすでに映写の人員は大幅に削減されていたという。

このようなコスト削減によって、劇場の運営が円滑に賄えているのであれば、一概にその流れ自体を否定することはできない。とはいえ、先ほどフィルム文化が消滅の危機に瀕しているといったが、もしかすると映写機がダメになるよりも前にフィルムを扱える人の方が先にいなくなってしまう可能性も捨てきれない。もっといえば、デジタルの映写機でさえキセノンランプの交換やらフォーカスの調整やらメンテナンスが必要であり、専門の業者でしか扱えなくなったらいずれ立ち行かなくなることは目に見えている。映画館の心臓部は、どこかのタイミングで簡単に止まってしまいかねない。

この手の話は書いていけばキリがないのでこの辺にしておくが、つまるところ“映画文化”というものが、単にスクリーン上に映しだされたものだけが重視される“コンテンツ文化”のひとつになった結果といえるかもしれない。最近は音楽の界隈でアナログなレコード盤が再ブームという話をよく聞くが、映画の界隈でそのような話題は一切ない。むしろ渋谷のTSUTAYAがクローズしてVHSへのアプローチが難しくなるなど、アナログに立ち返ることはせずに頑なに前しか向いていないのである。

映画がアナログに立ち返らない一因もまた、“コンテンツ文化”というやつだろう。映像の解像度が格段に上がり、いつしか映画は“観る”ものではなく“体験する”ものといわれるようになっている。映画の世界に没入して体験・体感するのであれば、褪色していたり余計なノイズが嫌われてしまうのは仕方ないことだ。とはいえ映画体験とは、スクリーンに投影された光に入り込んだ気になることではなく、劇場環境や上映素材の経年劣化も含めてその光を浴びることであったはずだ。もちろん劣化しないデジタル上映は技術として素晴らしいものがある。それと同じように、50年前の映画フィルムがたどってきた歴史と年輪を味わうこともまた、映画という記録媒体における変え難い記録なのである。

実はこのコラム「フィルム上映でしか味わえない醍醐味を語ってほしい」というテーマで書き始めたのだが、その醍醐味は誰かに言われて知るものではなく、実際にフィルム上映を観て主観的に感じ取る以外に術がないことである。映画を観る“目”は人それぞれまるっきり違う。デジタルの方がいいと思うのも正しいし、フィルムのほうがいいと思うのも正しい。現在はまだ、都内でも先述の109シネマズプレミアム新宿をはじめ、いくつかの映画館でフィルム上映が続けられている。主に旧作が中心ではあるが、むしろ配信で観られる作品を観比べてみれば何か見出せるのではないだろうか。

確かに言えることがあるとすれば、上映方式も劇場の形態も然りだが、アナログなものであっても選択肢は多いほうが良い。前に向いて進んでいくなかで置いてけぼりにされる過去も全部を含めてはじめて映画史であり、映画文化なのだから。そして少し年季の入ったフィルムでの上映を観れば、そこにある2時間の映画だけじゃなくその映画が作られてからの何十年かが見えてくる。映画が生き物であると、強く実感できるはずだ。

(文=久保田和馬)

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