『Chime』食事と料理、空間と移動、世界の崩壊――いくつかのキーワードから考える黒沢清監督の新作中編

新たな試みとしてスタートした『Chime』


2024年4月12日にスタートした、メディア配信プラットフォーム、Roadstead(ロードステッド)。そのオリジナル作品第一弾としてつくられた黒沢清監督の新作中編『Chime』(24)は、ベルリン国際映画祭での上映後、まずはRoadsteadで販売され、一定期間を経たあと、今夏に菊川の映画館Strangerで先行上映。以降、日本全国、全世界での配給も予定されているという。これまでにない異例の販売/上映スタイルとはいえ、2024年は、この『Chime』から始まり、セルフリメイク作品『蛇の道』(6月14日公開予定)、そして『Cloud クラウド』(9月公開予定)と、黒沢監督の新作が軒並み揃う記念碑的な一年となりそうだ。

黒沢監督は近年、『旅のおわり世界のはじまり』(19)、『スパイの妻』(20)、『彼を信じていた13日間』(22/『モダンラブ・東京~さまざまな愛の形~』内の一編)をはじめ、ホラーというジャンルから離れ、さまざまな「愛」の形を主題にしてきたように思う。しかし新作『Chime』は、ただ恐ろしさ、禍々しさだけを追求した純粋なホラー映画であり、黒沢監督の遊び心がたっぷりと詰め込まれた、清々しい怪作だ。

『Chime』©Roadstead

主人公は、料理教室で働く松岡(吉岡睦雄)。彼は日々生徒たちに料理を教えているが、一人だけ様子のおかしい、田代(小日向星一)という生徒がいる。他の生徒たちが和やかに談笑しながら松岡の作業を模倣するのに対し、田代だけはいつもぽつんと離れた場所に佇み、人とはズレた動作をくりかえす。やがて田代は松岡に、いつもチャイムのような音が鳴っているのが聞こえると打ち明ける。さらに田代は、自分の頭には半分機械が埋め込まれているのだと語り、その後も不審な行動を続ける。やがて田代はある恐ろしい事件を引き起こし、これを機に、松岡の日常は少しずつ狂い始めていく。

料理教室という舞台の不気味さ


黒沢清監督の映画を見つづけてきた人であれば、家庭の食卓という場所が、黒沢映画にとっていかに重要な装置であるかがよくわかるはず。『復讐 THE REVENGE 消えない傷痕』(97)や『蜘蛛の瞳』(98)から『クリーピー 偽りの隣人』(16)、『散歩する侵略者』(17)にいたるまで、夫婦ふたり、もしくは家族が揃い、食卓で向かい合う光景がたびたび描かれてきた(ちなみに、夫婦の場合はたいてい妻が料理担当だが、皿を運んだりビールを二人分のグラスに注ぐのは夫の担当である)。だが穏やかそうに見えるその光景は、多くの場合、やがておぞましい悲劇へと導かれていく。

『Chime』にもやはり家族で囲む食卓風景が登場する。『トウキョウソナタ』(08)のように子供と夫婦で食卓を囲む様子は、それが平穏に見えれば見えるほど、これから訪れる恐ろしい何かを予感させる。しかしこの映画でなにより重要なのは、料理教室という場所が登場すること。食事風景ほど頻繁に登場する機会はないが、黒沢映画における料理のありかたは、改めて考えてみたいテーマだ。『CURE』(97)での調理されなかった生肉の行方から、『岸辺の旅』(15)でのハッとするような官能性を持つ白玉団子作りまで、料理風景からは人々の関係のありかたが確かに見えてくるはずだ。

『Chime』©Roadstead

『Chime』で料理教室という舞台を選んだ理由について、監督自身はたいしたきっかけはないとしながらも、クリント・イーストウッドの『ヒア アフター』(10)に登場する料理教室のシーンを見たときに、ステンレスの調理台に包丁が並んでいる場所は撮りようによってかなり怖いものになるのではと感じた、と語っていた。実際、松岡の料理教室では、無機質なステンレスの調理台にずらりと包丁が並ぶなか、人々は鶏肉を骨から解体し、発酵したパン生地にナイフを入れる。料理教室としてはごく自然なものにもかかわらず、その作業風景は実に不穏な気配に満ちている。

そもそも料理教室とは、ゾッとするような恐ろしさを持つ場所なのかもしれない。そこには大量の包丁やハサミ、棍棒や肉叩き、鉄製のフライパンなどといった、いつでも凶器になりえる道具が揃っていて、動物の死体を骨から解体することも、火を使って肉を焼くことも、また死体を冷凍することも簡単にできてしまう。むしろそういう恐ろしい場所だからこそ、絶対に危険なことは起こらない、という約束をみなが共有することで、どうにかこの場を成り立たせているともいえる。

だから私たちは、誰かが包丁やナイフを手に取るたび、ステンレスの台が光を怪しく反射するたびに、何かが起こりそうな気配に身をすくめずにいられない。安全なはずの道具があるとき急に凶器に変わり、誰かがそれを振り上げるのではないか。絶対に安全であったはずのこの場所が、いつか本来の恐ろしさを取り戻してしまうのではないか。恐怖がじわじわと進行し、やがてその決定的な瞬間が訪れる。

ある空間から別の空間へと移動して歩く男


『Chime』の主な舞台は3つ。窓からチラチラと奇妙な光が挿し込む料理教室と、松岡が妻と息子と住む一軒家、そして彼が転職のための面接を受けるガラスばりのカフェ。同時に、教室とビルの出入口とをつなぐ暗い階段や踊り場、教室が面した線路沿いの道といった、空間と空間をつなぐ場所が何度もくりかえし映される。

松岡の日常は、教室に通い、仕事が終わると家に帰宅し夕食をとるという、規則正しいリズムから成っている。しかし、教室から出口へ向かう際、帰宅のため線路沿いの道を歩くとき、足早に立ち去ろうとする彼はそのたびに何度も立ち止まり、後ろを振り返ることになる。後ろを振り返るのは、当然呼び止められるからだ。ときには同僚たちから、またときには事件を調べる刑事によって、松岡は足を止められる。しかし誰にも呼び止められないにもかかわらず、彼が立ち止まりふと後ろを振り向くとき、そこではいったい何が起きているのだろう。

『Chime』©Roadstead

当初、『Chime』は短編映画として企画がスタートしたという。結果的に45分間という上映時間になった本作には、松岡という男の周囲で次々に不審な出来事が起こり、説明などいっさいないまま素早いスピードで物語が進んでいく。そのため、これまでの作品以上に謎めいていると同時に、不思議な爽快感を感じさせる。撮影を手がけたのは、『彼を信じていた13日間』でも協働した古屋幸一。編集は、東京藝大での黒沢監督の教え子で、濱口竜介監督の『寝ても覚めても』(18)や『ドライブ・マイ・カー』(21)の編集を手がけた山崎梓。

顔のクロースアップから人物のミドルショット、風景ショットがスピーディーに繋がれていくなかで、あるときふいに、ロングショットによる長回しが出現する。それがどのようなものであるかは見てのお楽しみだが、このショットが撮られた場所が、松岡がいつも行き来するのとはまったく別のどこかであること、そしてこの場面から彼がもはや引き返せない場所へと向かい始めることは、記しておきたい。

世界の崩壊と、目覚めの瞬間


田代の頭の中で鳴っていたチャイムとはどのような音だったのか。確かに事件のあと、映画のなかでは学校のチャイムによく似た音がかすかに鳴り響く。しかしそれが田代の言っていた音なのか、松岡の耳にも聞こえている音なのかどうかはよくわからない。どちらにせよ、映画には終始奇妙な音が鳴り響き、彼の日常はたしかに崩壊していく。

ひとりの謎の男の出現が誰かを狂わせ、その世界を破壊するという物語の構図は、黒沢監督が1997年に監督した『CURE』を思い起こさせる。『CURE』は、元々まともだと思われていた人々が、怪物のような男との出会いによって、自分のなかに眠っていた殺意を目覚めさせられる話だ。殺意は人から人へ、伝染または伝導という形で受け渡されていく。『Chime』の場合も、田代という不気味な男の登場がひとつのきっかけとなり、松岡のなかの殺意が目覚め、さらにその殺意が周囲の人々へと連鎖していくように見える。

『Chime』©Roadstead

一方で、『Chime』を見ていて驚くのは、松岡が狂気に陥る瞬間や、世界の崩壊の瞬間がまったくわからないことだ。何より、松岡という人物は、登場当初からすでに違和感を感じさせる人物である。彼が滔々と語れば語るほど異様さが際立ち、家庭での団欒風景は、はなからホラー映画の一場面にしか見えない。料理教室もまた最初から不穏な光に満ちていた。田代という男によって奇妙な音=チャイムが鳴り始めたのではなく、実は初めから、松岡のいるあらゆる場所で不穏な音が鳴り響いていたのではないか。とっくの昔に、世界は壊れていた。そして彼自身もまた壊れていたのだ。

自分は外部の誰かによって、無理やりに目覚めさせられたのか。それとも、気づかなかっただけですでに自分は目覚めていたのか。そしてこの場合、果たしてどちらがより恐ろしいのか。世界の崩壊と、目覚めの瞬間をめぐる問い。それは、黒沢監督のさらなる新作長編『蛇の道』にも通ずる問いとなるだろう。

文:月永理絵

映画ライター、編集者。雑誌『映画横丁』編集人。『朝日新聞』『メトロポリターナ』『週刊文春』『i-D JAPAN』等で映画評やコラム、取材記事を執筆。〈映画酒場編集室〉名義で書籍、映画パンフレットの編集も手がける。WEB番組「活弁シネマ倶楽部」でMCを担当中。 eigasakaba.net

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映画『Chime』

DVT(Digital Video Trading/デジタル・ビデオ・トレーディング)プラットフォーム「Roadstead(ロードステッド)」にて、4月12日(金)より、5月11日(土)まで世界同時販売。

※但し、全世界販売総数が999本に達した時点で販売終了

Roadstead『Chime』公式サイト

©Roadstead

© 太陽企画株式会社