武田修宏氏が〝ドーハの悲劇〟の裏話を披露「ずっとBチームの右サイドバックだった」

サッカー元日本代表FW武田修宏氏(56)が、元日本代表MF前園真聖氏(50)のユーチューブチャンネル「おじさんだけど、遊んでもいいですか?」に出演し、1993年の米国W杯最終予選イラク戦でロスタイムに同点とされて初出場を逃した〝ドーハの悲劇〟について語った。

武田氏はイラク戦で後半残り9分で投入され、ボールキープをしなかったことなどが批判を浴びた経緯がある。

「あの時間帯に試合に出ていって、まさか後ろのブロック(韓国が北朝鮮に3―0と勝利して得失点差で日本を上回った)であんな点差で大勝するとは(思って)なかったし、同点でも(W杯に)出られるんじゃないかと思っていた。逃げきれるんだろうと。たぶん行けるんじゃないかという感じだった」と振り返った。

そして、武田氏は当時のオフトジャパンで自身が置かれていた状況に言及。「もともと最終予選に出る予定じゃなかった。おれオフトジャパンの4年間、ずっとBチームの右サイドバックだった。ヴェルディのエースがずーっとBチームの右サイドバック」と本来のFWではない守備的なポジションで苦闘していた。

「でもおれはめげずに、ラモス(瑠偉)さんに『頑張れ』と言われて頑張った。それでたまたま、あの最終予選で、高木(琢也)がレッドカードで出られなくなって、おれはたまたま入ったのよ。初戦イランに負けて、繰り上がりでおれが出たら韓国戦よかった。その流れで(イラク戦も)出た」とようやく出番がまわってきた背景があった。

悔しい結果には終わったが、武田氏は感慨深げに振り返る。「その時思ったのは、4年間頑張ってやれば、こうやって運があるんだなと。ドーハが終わった後、ラモスさんがおれの部屋に来て『お前は4年間、Bチームのサイドバックだったけど、よくやったよ』と褒めてくれた。あの場面でおれが出たということは、運が回ったなと。逆に悲劇だったから記憶に残ったというのはある」と腐らずに努力を続けた意義を強調した。

そして、現在のW杯出場枠との違いを指摘。「おれらの時代はアジアは2チームだったのよ。今は8・5でしょ。2チームというのは本当に大変だった。みんな『W杯出てないでしょ』と言うけど、3位で出られなかったのよ、あの時。次(98年フランスW杯は)3位で出ている」とアジア予選の厳しさを語っていた。

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