「肌の色を問題にすることはこれまでも、そしてこれからも決してない」――ジャッキー・ロビンソンを支えた“高潔なドジャー”、カール・アースキンが97歳で死去<SLUGGER>

現地4月16日、1950年代のドジャースで活躍し、通算122勝を挙げた好投手カール・アースキンが死去。97歳だった。

ドジャースひと筋で12年にわたってプレーし、ノーヒッターは2度達成。ワールドシリーズには5回出場し、53年には当時のシリーズ記録となる1試合14奪三振を奪って完投勝利を挙げるなど、数々の実績を持つアースキン。ドジャースからはそれ以上の名投手が数多く登場しているためか、それほど名の知られた存在ではないが、黒人選手のパイオニア、ジャッキー・ロビンソンの盟友としても、歴史にその名を残している。

2人の関係は、アースキンがメジャーデビューする直前の48年春までさかのぼる。当時はドジャース傘下2Aの投手だったアースキンは、MLBチームとエキシビションゲームで5イニングに登板して好投。試合後には、わざわざロビンソンはアースキンを探しに来て、「君はもうすぐ僕たちと一緒にプレーすることになるよ」と声をかけたという。その年の7月、アースキンは予言通りにメジャーデビューすることになるのだが、クラブハウスのロッカーは何とロビンソンの隣だった。

当時のロビンソンはまだメジャー2年目で、色濃く残る差別にひたすら耐えながらプレーしている最中だった。だがそんな時代にあって、白人のアースキンはロビンソンを友人としてサポートすることにまったく躊躇しなかったという。ある日、ロビンソンに「どうして、僕が黒人で君が白人であることに何の問題も感じないんだ?」と聞かれたアースキンは、「僕は子供のころから近所に黒人の友達がたくさんいたし、差別とは無縁だった(アースキンは黒人が多く住んでいたインディアナ州アンダーソンの出身だった)。10歳から一緒にいる僕の親友も黒人だ。そのことを問題にしたことなんて一度もないし、これからも問題にすることはないよ」と答えたという。
アースキンはロビンソンのサポート役としてチームで重きを成しただけでなく、得意の大きなカーブを武器に、50年代に入るとローテーション投手としても活躍し始める。51年には初めて規定投球回に到達して16勝。53年はカブス戦でのノーヒッターを含めてリーグ3位の20勝を挙げ、翌年にはオールスターにも選出されるなど、この時期は実質的なエースとして活躍した。当時はアースキンやロビンソンの他、強打の名捕手ロイ・キャンパネラ、主砲のギル・ホッジス、俊足攻守の遊撃手ピー・ウィー・リースに三拍子そろったセンターのデューク・スナイダーらが活躍し、“ボーイズ・オブ・サマー(夏の少年たち)”と呼ばれたブルックリン時代のドジャース最大の黄金時代だった。

アースキンはその後、チームがロサンゼルスに移ってからも現役を続けた。ロサンゼルス・ドジャースになって初のホームゲーとなった58年4月18日のジャイアンツ戦に先発したのもアースキンで、その翌年に32歳で引退している。その後は地元インディアナ州に戻り、解説者や大学野球チームのコーチを務める傍ら、ダウン症の息子を献身的に支え、同じ症状を持つ人々への支援を惜しまなかった。インディアナ州にはアースキンの名を冠した医療施設があり、彼の銅像も建てられている。

アースキンがインディアナ州の病院で亡くなった日は、奇しくもジャッキー・ロビンソン・デーの翌日だった。死去にあたってドジャースのスタン・カステンCEOが発表した「アースキンは模範的なドジャーだった。フィールド上でもそうだったし、それと同じくらいフィールドの外でもヒーローだった」という声明が、アースキンの人となりを端的に表している。選手としての業績も素晴らしいが、それ以上に彼の高潔な精神こそ、今後も長く語り継いでいくべきものだろう。

文●筒居一孝(SLUGGER編集部)

© 日本スポーツ企画出版社